徳川家康は織田信長の命により、泣く泣く亀姫を奥平信昌に嫁がせたのか。意外な真実があった
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、長篠城の攻防が一つの焦点となっていた。このとき、徳川家康は織田信長の命により、泣く泣く亀姫を奥平信昌に嫁がせていたが、この点を改めて考えてみよう。
天正3年(1575)5月、三河に侵攻した武田軍は、徳川方の長篠城(愛知県新城市)を攻囲した。長篠城を守っていたのは、奥平貞能・貞昌(のちの信昌)父子であるが、武田の大軍に大いに苦戦していた。そこで、奥平氏は徳川家康に援軍を要請したのである。
援軍の要請を受けた家康は、織田信長の軍勢約3万、自身が率いる約8千の軍勢で長篠に向かったのである。ドラマの中では、信長が家康に無断で、娘の亀姫を貞昌に嫁がせる計画を立てていた。この点については、『藩翰譜』におもしろい記事があるので紹介しよう。
奥平貞能・貞昌(のちの信昌)父子は武田氏から離反し、織田・徳川に味方したものの、貞昌は武田方に送った最愛の妻を見捨てた(その後、見せしめに殺された)。家康はその恩義に報いるため、亀姫を信昌の妻に決定したのである。
このとき信康(家康の嫡男)は、「なぜ自分の妹を貞昌の妻にするのか」と父の家康に問うた。しかし、家康から明確な答えがもらえなかったので、義父でもある信長に相談した。
信長は「信康に異論があるのはわからなくもないが、奥平父子は家康のために戦った忠義の者である。ここは曲げて、家康の考えに従うべきである」と答えた。別に、信長が無断で婚儀を計画したのではなく、家康自身の考えで進めたのは明らかだ。
信長の答えを聞いた信康は、「父の仰せといい、信長殿も同じ答えだった。2人の親が仰せのことなので、これ以上、異論を唱えるわけにはいくまい」と述べた。その結果、亀姫は貞昌に嫁ぐことになったのである。
『藩翰譜』は新井白石の手になる著作だが、あくまで後世に成ったものなので、どこまで事実なのかは判然としない。一読すると、創作臭がプンプンしないわけではない。今回の大河ドラマは、『藩翰譜』をベースにしたのかもしれない。
ところで、家康はもともと信長と対等な関係にあったが、この頃には配下に収まっていた点に注意が必要である。天正元年(1573)に足利義昭が京都を追放されて以降、主従関係になっていた。
そうした点を考慮しても、信長が家康に無断で婚儀を進めるとは考えられない。三河に本拠を持つ家康が武田氏との戦いを有利に進めるため、政略結婚として亀姫と貞昌の婚儀を進めたと考えるのが自然だろう。