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5人の戦国武将は、本当に梅毒が原因で亡くなったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
加藤清正像。(写真:イメージマート)

 近年、我が国でも梅毒に罹る人が増えているという。実は、戦国時代においても、5人の戦国武将が梅毒が原因で亡くなったというが、それは事実なのだろうか。

1.加藤清正(1562~1611)

 慶長16年(1611)6月24日、加藤清正が病没した。清正は居城の熊本城に至る船中で熱病に罹ったが、その後も家臣らと歌舞伎を楽しんだ。

 しかし、徐々に病状が悪化して、間もなく亡くなったのである。清正の死因は梅毒のほか、ハンセン病などの説がある。あるいは、豊臣秀頼と徳川家康が面会した際、出された毒饅頭を食べて亡くなったともいわれている。

2.結城秀康(1574~1607)

 慶長12年(1607)閏4月8日、結城秀康が病没した。秀康の死因は、唐瘡(梅毒)だったという。3人の医者が投薬をしたが、病状は好転しなかったという。

 『医学天正記』によると、秀康は「瀉利(しゃり:げり)・発熱・咽渇(喉の渇き)・五令ニ加滑」などの症状があった。なお、秀康の死に際しては、家臣が殉死したが、土屋左馬助と永見右衛門は男色の関係にあったので追腹に至ったとの説がある。

3.前田利長(1562~1614)

 慶長19年(1614)5月20日、前田利長が病没した。利長はその前年から病を患っていたが、一説によると、それは嘘病だったと伝わっている。『当代記』には、利長の死因が唐瘡(梅毒)だったと記す。むろん、医者の治療を受けていたが、残念ながら効果は認められなかった。服毒による自殺という説もあるが、非常に疑わしい(『懐恵夜話』)。

4.浅野幸長(1576~1613)

 慶長18年(1613)8月25日、浅野幸長が病没した。『当代記』によると、幸長は唐瘡(梅毒)のため養生していたが、紀伊に戻ってから油断したので、亡くなったという。

 幸長は大変な好色で、遊女を買い取っていたと伝わる。つまり、不特定多数の女性と交わっていたので、梅毒に罹ったということになろう。幸長が梅毒だったということは、『慶長年録』にも書かれている。

5.池田輝政(1565~1613)

 慶長18年(1613)1月25日、池田輝政が病没した。『駿府記』によると、輝政は中風(脳卒中の後遺症)に罹っており、身を案じた徳川家康は、自ら烏犀円(うさいえん)という薬を調合し、服用を勧めたといわれている。

 ところが、『当代記』には、近年に唐瘡(梅毒)が死因となった人物として、輝政の名前を挙げている。輝政は好色だったと書かれているが、真偽は不明である。

 当時は医学の知識が十分ではなく、死因を記録した史料は、おおむね二次史料である。その点を考慮すると、彼らが本当に梅毒で死んだのか否か、判断を留保せざるを得ない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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