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薩摩藩に課されたデスマーチ、宝暦治水⑤

華盛頓Webライター
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江戸時代には手伝普請という名目で、大名が大規模な土木工事に駆り出されることがしばしばありました。

それは大名にとって非常に大きな負担となりましたが、その中でもとりわけ多くの犠牲者を出したのが宝暦治水です。

この記事では宝暦治水の軌跡について取り上げていきます。

その後も続いた洪水

薩摩藩の治水事業は終了後も現地の管理が続き、代官が派遣されましたが、後に尾張藩に統合されました。

宝暦治水は一定の成果を上げ、下流地域では水害が減少しましたが、工事直後に大榑川洗堰が破損し、周辺の農村に被害をもたらしたのです。

揖斐川流域の住民は締切工事を求めた一方で、木曽川沿いの村々は締切が水害の原因になると反対しました。

長良川流域では洪水が増加し、一部地域では治水への評価が否定的だったのです。

その後も度重なる修築が行われましたが、根本的な解決には至りませんでした。

最終的に明治期に入りヨハニス・デ・レーケの指導で河川改修が進められ、1900年に竣工したことにより、濃尾平野の洪水問題はようやく解決したのです。

明治時代に再び注目を集めた薩摩義士

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1880~90年代、多度村(現桑名市)の豪農・西田喜兵衛による薩摩義士顕彰運動が盛んになり、薩摩藩士の勇敢な治水活動が広まっていきました。

1890年には『治水雑誌』で宝暦治水が大きく取り上げられ、薩摩藩士の自害や平田靱負の切腹が強調され、顕彰碑も西田の手で建立されたのです

1900年の木曽三川分流工事の竣工式には、内閣総理大臣山縣有朋や大蔵大臣松方正義らが参列し、平田らの功績を称える祭が行われました。

その後、大正時代には岐阜県の岩田徳義が顕彰活動を進め、1916年には平田に従五位が追贈されました。

1926年には「薩摩義士顕彰会」が設立され、薩摩義士の事績が教科書に掲載されるなど、その評価は次第に高まっていったのです。

昭和13年(1938年)には「治水神社」が建立され、平田ら85名の薩摩藩士が祀られました。

鹿児島県でも、1920年に薩摩義士記念碑が建立されてから顕彰活動が進み、大正から昭和にかけて多くの記念碑や銅像が建立されました

1955年には「薩摩義士遺徳顕彰会」が設立され、さらに1994年には『薩摩義士』が刊行されるなど、鹿児島でもその功績が称えられるようになったのです

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