江戸時代随一の巨大プロジェクトだった、宝暦治水
江戸時代には手伝普請という名目で、大名が大規模な土木工事に駆り出されることがしばしばありました。
それは大名にとって非常に大きな負担となりましたが、その中でもとりわけ多くの犠牲者を出したのが宝暦治水です。
この記事では宝暦治水の軌跡について取り上げていきます。
江戸時代随一の巨大プロジェクトだった宝暦治水
この治水工事は、第一期と第二期に分けられた大規模なプロジェクトでした。
第一期では、過去の水害で破壊された堤防や設備の復旧が行われ、第二期では本格的な治水工事が実施されたのです。
第二期では、輪中地域の南部を四つの工区に分けて工事が行われ、それぞれの工区で異なる治水対策が実施されました。
まず「一の手」と呼ばれる工区では、岐阜県羽島市の桑原輪中から愛知県稲沢市の神明津輪中までが対象となり、木曽川と長良川を繋ぐ逆川に洗堰を設け、木曽川からの流入を防ぐ工事が行われました。
また、木曽川には猿尾堤も築かれたのです。次に「二の手」では、愛知県弥富市の森津輪中から三重県木曽岬町の田代輪中を工区とし、筏川の開削と浚渫が行われ、河川の流れを整える対策が進められました。
「三の手」では、岐阜県大垣市の墨俣輪中から海津市の本阿弥輪中が対象とされ、長良川と揖斐川を繋ぐ大榑川に洗堰を設けて、長良川から揖斐川への流入を制御する工事が行われました。
そして「四の手」では、岐阜県海津市の金廻輪中から三重県桑名市の長島輪中までの地域で、木曽川と揖斐川の合流地点に食違堤が設置され、木曽川からの流入を抑える試みが行われたのです。
なお、「五の手」も計画されていましたが、実施には至りませんでした。
幕府側の役人として、各工区に複数の奉行が任命され、工事全体を監督しました。
さらに、幕府は薩摩藩に工事の一部を担わせましたが、普請情報を秘匿し、薩摩藩への待遇も冷遇されていたと言われています。
しかし、工事進行に支障が出たため、最終的には一部情報が公開され、協力が進んだとされているのです。
工事費用は幕府と薩摩藩で分担され、人足や木材の費用もそれぞれの負担によって賄われました。
特に村請工事の形で進められ、地元住民も大きな役割を担いましたが、この体制には賃金や労力の面での負担が大きく、財政的な課題が付きまとったのです。