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薩摩藩に課されたデスマーチ、宝暦治水④

華盛頓Webライター
credit:unsplash

江戸時代には手伝普請という名目で、大名が大規模な土木工事に駆り出されることがしばしばありました。

それは大名にとって非常に大きな負担となりましたが、その中でもとりわけ多くの犠牲者を出したのが宝暦治水です。

この記事では宝暦治水の軌跡について取り上げていきます。

総奉行が切腹した薩摩藩

1755年3月に木曽川の第二期工事が終了し、その後幕府による検分が行われました。

検分が完了すると、工事総奉行であった平田靱負は5月24日にその結果を国元へ報告します。

しかし、翌朝、平田は美濃大牧の宿所で命を絶ちました。通説では、工事中に多数の自害者や病死者を出し、巨額の費用を藩主に謝罪するために切腹したとされていますが、島津家の史料では病死とされています。

平田の辞世の句は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」と伝えられているのです。

工事が終わると、副奉行の伊集院十蔵が江戸へ向かい、幕府に報告を行いました。

その結果、幕府は工事の成功を祝し、関係者へ報賞を与えたのです。

薩摩藩の財政負担は大きく、『宝暦治水薩摩義士参考文書』によれば、藩は約30万両の費用を見積もっていました。

しかし実際には平田が大坂で銀師から22万両の借金を行い、不足分は特産品の売上や藩士からの拠出で補われていたのです。

藩の負債は、すでに財政困難にあった1753年の時点で67万両でしたが、治水工事の約50年後には117万両にまで膨れ上がりました。

この巨額な借財は、工事が予想以上に費用を要したためです。

当初の設計や予算は、河川の流れに影響を受けて変更されることが多く、実際の工事費は当初の見積もりを大幅に超えることがしばしばでした。

たとえば、大榑川洗堰の工事では、当初3946両が見込まれていましたが、最終的には4988両を要したと言われています。

こうした工事の進行や支出により、薩摩藩はさらなる財政難に追い込まれ、負債の増加が続く結果となりました

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