薩摩藩に課されたデスマーチ、宝暦治水
江戸時代には手伝普請という名目で、大名が大規模な土木工事に駆り出されることがしばしばありました。
それは大名にとって非常に大きな負担となりましたが、その中でもとりわけ多くの犠牲者を出したのが宝暦治水です。
この記事では宝暦治水の軌跡について取り上げていきます。
長年洪水に悩まされていた濃尾平野
濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の三河川の下流部は、複雑に合流と分流を繰り返すため、特に洪水が頻発する地域でした。
美濃国(現在の岐阜県南部)では領主間の利害対立から統一的な治水策を講じることが難しく、治水工事が遅れたのです。
慶長13年(1608年)には、幕府主導で木曽川に御囲堤と呼ばれる堤防が築かれましたが、この堤防は軍事的意味合いが強く、右岸の美濃国側では堤防の高さが尾張藩の堤防より低く制限されていたと言われています。
しかし、御囲堤の建造時期や規模には議論があり、史料の不足や伝承との矛盾が指摘されているのです。
例えば、御囲堤が犬山から弥富まで延びていたとする通説は、当時の流域とは合わず、3尺(約91cm)の高さ制限を裏付ける証拠も確認されていません。
研究者の原昭午は、尾張藩の史料から堤防の完成は寛政年間(1789年~1801年)と推測しています。
1735年、美濃郡代の井沢為永は三川の調査を行い、分流工事の計画を立案しましたが、財政難で実行されませんでした。
この計画が後に宝暦治水に影響を与えたと言われますが、確たる証拠はないとされています。
18世紀半ばに幕府は、度重なる水害に対処すべく、何度も治水工事を試みましたものの、濃尾平野の地形や技術の限界から抜本的な解決には至りませんでした。