2000本安打に詰まった中日・和田のレジェンドな打撃技術と人生観
スポーツの現場を歩かせていただくと、いい瞬間に立ち会うことがある。
それはジャンアントキリングと呼ばれる番狂わせのシーンであったり、限界を超える瞬間のプレーであったり、気が遠くなるような記録の通過点であったりする。
中日の和田一浩外野手(42)が、残り2本に王手をかけたと聞いて、11日、千葉マリンで行われた交流戦の中日―千葉ロッテ戦に足を運んでみた。試合前からベンチ前には驚くほどのカメラが居並び、和田は、嫌な顔ひとつせずに、その前に立った。
「いつものように一生懸命、全力でプレーするだけ。多少は緊張しますけどね。ホームランで決めるなんて、狙ってもできるものじゃない。チームの勝ちにつながる1本を打ちたい」
そのやりとりを聞いているだけで、和田の誠実さが伝わってくる。旧知のドラ番記者に聞くと、和田は、自分が責任を背負うような負けゲームでも取材を拒否したことがないという。
記念すべき2000本目は、和田のバッティングスタイルを象徴するようなヒットだった。二回二死一塁。体全体を使って、思い切り引っ張った打球は、レフト線を破った。第一打席は、一回二死満塁の場面で三遊間にタイムリーを放っていた。王手をかけた直後の第二打席に、あまりに呆気なく打ってのけた。
中日ベンチからは、2年前に42歳4か月で2000本を達成していた谷繁兼任監督が一塁ベースまで花束を持ってかけつけた。
「これは区切りであった、まだまだこれからだよ」
そう言葉をかけられると、和田は、「そうだよな。ここで達成感を持っている場合じゃない」と思ったという。
ロッテ・ベンチからは、西武時代に共にプレーした伊東監督が複雑な表情で見守っていた。和田は、「絶対に(この3連戦では)打たせない)と宣言されていたが、西武時代から親交の厚い、先輩の前で、恩返しの記録達成となった。
「まさかここまで到達できるとは思わなかった。プロに入ったとき、レギュラーをとるのも難しい選手で、2000本なんて異次元の記録。目標でもなかった。よくここまでこられた」
試合後、和田は、淡々と、プロ19年で積み重ねた記録の区切りをかみ締めていた。
努力と人との出会い。
波乱万丈の和田の野球人生を集約すると、つまるところ、そういうことになる。東北福祉大―神戸製鋼を経て1996年のドラフト4位で西武にキャッチャーとして入団したが、チームには、伊東、中島聡と2人の捕手がそろっていて出番は回ってこなかった。
「たくさんの人に支えられて、ここまできた」
最初の転機は、入団5年目となる01年オフから監督に就任した伊原春樹氏の言葉だ。「もうミットはいらない」と、キャッチャーから野手へのコンバートを指令され、02年から本格的に野手へ転向した。もう迷うことなくバット1本で食っていかねばならなくなった、同時期に現在は、高校野球監督の打撃コーチの金森栄治氏と出会う。
金森理論は、体を使って回転して駒のように打つという打法。和田の打法の原点はここにある。金森氏からは「バットを折っても詰まってもいい」と言われた。体全体を使って回転力を使って打てば、芯に当たらずとも、打球は、どこかのヒットゾーンに飛んでいってくれる。その方が、トータルで率が上がる。
それがオープンスタンスから「流し打ちも引っ張って打つ」という、和田の独特のバッティング感性につながっていく。
2007年オフにFAを使い、故郷・岐阜のある中日へ移籍した和田に第二の転機が訪れる。「理にかなった打ち方をしなければ選手生命が縮まるぞ」という助言を元3冠王、落合博満監督から受けて、2011年のキャンプから、体の反動を使うことで肉体的な負担のかかるオープンスタンスをやめて、スクエアに戻したのである。その打撃変更が、ちょうど統一球の導入と重なって、和田は想像を絶するスランプに陥る。前年に、打率・339、37本、93打点あった数字が、一気に、打率・232、12本塁打、54打点まで落ちたのだ。
野球生命の危機だった。
だが、和田は、足踏みをやめなかった。再び変化を求めたのである。
この頃、日本代表チームで一緒だったスコアラーの三宅博氏は、和田に尋ねている。
統一球で何が狂ったのか?と。「ボールのポイントですね。飛ばさなければと、強く振らなければと、ずれていたんです。でも、試行錯誤を繰り返しながら、わかりました」と答えたという。再び、故障のリスクを承知で、再びオープンに少し戻した。遠回りしたが、和田にしてみれば、それも一生懸命の積み重ねであった。
昨年8月には、残り15本の時点で死球を受けて右手首を骨折。シーズンを棒にふった。今季も左ひざを痛めて開幕に間に合わなかった。42歳。満身創痍ではある。
「怪我をして出遅れたいたのでようやくという気持ち。体は強いつもりでいたけれど、ボロが出てきたのかなという葛藤があった」
和田は、人気歌手の福山雅治も見ているという専属トレーナーと契約。時間をかけたストレッチを毎日、欠かさず取り入れるなど、体のケアには余念がない。努力と一生懸命は、グラウンドの中だけの時間ではなかったのである。
日本シリーズで、何度も名勝負を繰り広げてきた千葉ロッテの里崎智也氏の著書作りを手伝ったとき、何度も、聞かされたのが「べんちゃん(和田)」という名前である。彼は、その著著に「バットコントロールに優れていて滅多なことでは三振しない。完全にタイミングを外したのに、あっちむいてホイで、逆方向にヒットを打ったりする。こういう巧のバッターから三振を取ると本当に嬉しかった」と書いている。
確かに広角に打て、しかも、右方向へ長打が打てるのが、和田の特徴である。それもコツンではなく、思い切り振り抜いての右への打球。くしくも、5回に香月から打った2001本目のヒットが、フルスイングのライト前ヒットだった。通算打率が3割を超えているのも納得である。現在、セの本塁打トップを走るヤクルトの畠山も、「理想のバッティングスタイルは和田さん」と語っていた。苦労に苦労を重ねた職人技は、レジェンドな打撃技術となっている。
「一生懸命を積み重ねた。もう少し乗り切ってやっていきたい。自分のベースでね。でも、2000本よりも優勝したときの方が喜びが大きかった。まだチームは上に手の届く位置にある。食らいついていきたい」
試合後、QVCマリンの3階にある特別や部屋で会見をした和田は、2000本安打の会見なのに、チームの話をした。
イチローのように考えつくしたコメントではない。朴訥で素直な語りかけは、作った言葉よりも心に染みた。
人との出会いを無にするも財産にするのも、その人の受け取り方次第だろう。和田は、いつも真摯に耳を傾ける。人に裏切られても裏切らない。だから、人は、和田をなんとかしたいと思う。愛されるのだ。そして失敗しても、窮地に陥っても、決して足踏みをやめなかった。和田の19年もの時間をかけた2000本安打には、人生とはこうあるべきだという教えが詰まっているような気がした。