本能と欲望のみに従い、何が起きても傍観して生きるなら、人類は「サルの群れ」と同じ。『ザ・スクエア』
さて今回は、昨年のカンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞した話題作『ザ・スクエア 思いやりの聖域』を、リューベン・オストルンド監督のコメント共にご紹介します。私個人の感想をで言えば、『聖なる鹿殺し キリング・オブ・サイクリッド・ディア』と並んで、カンヌで見た中で最も刺激的で面白かった作品です。
リューベン・オストルンド監督といえば、前作『フレンチアルプスで起きたこと』をご覧の方もいらっしゃるかもしれません。これ、アルプスのスキー場で突然起きた雪崩に、家族そっちのけでうっかり先に逃げてしまったダメ父親の、そこから始まる「笑える”針の筵”状態」をシニカルに描いた作品でした。
今回の主人公中年男クリスチャンもまた、その父親に負けず劣らずの「ダメ男あるある」に満ちたキャラクター。とにかく笑えるのですが、そうしているうちに戦慄を覚えるような恐怖にバーンと突き落とされ、ラストには人間について深く考えさせてしまうのがこの監督のすごいところ。「大人が見るにふさわしい要素が全部盛り」みたいな作品です。
ということで、こちらをどうぞ!
まずは物語。主人公のクリスチャンは美術館のキュレーターで、現在は「ザ・スクエア」というインスタレーション展示のプロモーションを企画中。この美術展示、実は以前に監督が実際に行ったプロジェクトで、町の広場(スクエア)に四角形の枠(スクエア)を設置して、「この枠内ではすべての人が平等の義務と権利を持つ」とうルールを作るというもの。もし誰かがこの中に立って助けを求めていたら、通りかかった人は助ける義務がある。人間の良識を、あるルールによって呼び起こす、という企画展示です。
映画の中の美術館ではそうしたルールが示され、人々はそれに従った行動ができるかどうかが試されてゆきます。例えば展示を見に訪れた人が最初にすることは、「他人を信じる」「他人を信じない」という二つのドアのうち一つを選ぶこと。たいていの人が「信じる」を選ぶのですが、入るとすぐの部屋の床には「ザ・スクエア」が。ルールはこうです―ー「(他人を信じているならば)ここに携帯電話と財布を置いて行ってください」。これ、どうしたもんかと思いますよね。そりゃ他人を信じているんだけれど、そこまで実践するのはなかなか……って言い訳したくなっちゃいますよね。
オストルンド監督 クリスチャンは『ザ・スクエア』という人道的なプロジェクトを信じている。でもそうした信条とはまったく逆の行動を次々ととってしまうんだ。映画ではそのコントラストを見せたかった。「こうあるべき自分」と「必ずしもそうはなれない自分」との間に起こる自己矛盾をね。でもそれはクリスチャンがダメなヤツだからじゃない。「しょーもないけど、自分もでもこういうことやっちゃうよね」っていう感じで、状況によっては誰もが彼になりうるんだよね。
さてそんな感じに人間くささ満点の主人公クリスチャンですが、決して悪い人間ではありません。冒頭では通勤中に男に追われて「ぎゃあああ!助けて!!」と逃げてくる女の子を、あわあわしながら助けるなんてことも。ところがふと気づくと彼女は消えていて、そのどさくさで彼の財布とスマホが消えている。誰もが無視していた「逃げてくる女の子」を善意で助けたばっかりに、チーム演技のスリにカモられてしまったワケです。
この事件のポイントはクリスチャンのアホさではなく、彼以外の人たちが「逃げてくる女の子」を助けなかった、完全に無関心だったこと。これってつまりは「電車の中でおばあちゃんに誰も席を譲らない」とか「クラスの全員がイジメを見て見ぬふり」とかと完全に同じで、日本人的には非常にリアルに感じられる問題です。
オストルンド監督 社会心理学では、こういうのを「傍観者効果」っていうんだよね。つまり何かが起こった時、多くの人は「どうせ誰かがどうにかするだろう」と傍観してしまう。本質的に「群れ」の動物である人間は、「群れ(集団)」の中で起きることに対して、基本的に傍観者的な態度をとってしまうものなんだ。その行動パターンから抜け出すには、まずは「人間はそういう性質がある」という認識を持つことが重要なんだよね。
この映画のクライマックスのある場面には、観客がそのことを強烈に叩きつけられる場面があります。登場人物も観客も「傍観者」として見ているうちに、「他人事」と笑ってはいられなくなる、恐ろしくもリアルな場面。そのキーワードは「サル」です。
オストルンド監督 僕があの場面に「サル」を使ったのは、そういう行動パターンの理解のためには「人間も動物であること」を思い出させることが必要だと思ったからだ。それに僕は個人的に「サル」が好きなんだよね――っていうか、人間は誰でも「サル」が好き、「サル」を見てわが身を振り返るのが好きだよね。
その理由はおそらく、人間が「恥」にまみれている、自分の本能や欲望を恥ずかしいと思っているからじゃないかと思う。そんなことおかまいなしに、本能と欲望だけで動いている「サル」を見て、どこかホッとするからじゃないかな。
僕の映画の多くは、「面目を失う」ことを恐れる人間が、恥にまみれながらどうやって生きてゆくかを描いているんだよ。前作の『フレンチアルプスで起きたこと』で描いたのは、家族を守らず自分だけ逃げた父親について、彼が「面目丸つぶれ」のその後をどうやって生きるか、を描いたお話だった。でもサルならそんなこと恥ずかしいなんて思わない。
2~3年前に韓国で起きたフェリーの沈没事故でも、たくさんの高校生が亡くなった中で、生き残った教師がいた。でも一か月後、彼は生存本能のみに従ってしまった自分を恥じて、自殺してしまったんだよ。人間は恥とともに生き続けることができない。「恥」という概念がそこまでのインパクトを持つ動物は、他にはいないと思う。
さて話をクリスチャンに戻しましょう。携帯電話の現在地機能を使い、犯人は移民が多い地区の集合住宅にいる!と特定した彼は、「お前がやったのは分かってる!返さないとひどい目にあわすぞ」みたいな脅迫状を、考えなしにその集合住宅の全戸のポストに投げ込んでゆきます。これ、よく考えたらかなりヒドい話ですよね。だって「集合住宅に住んでいる貧しい移民たちを、全員犯人扱い」みたいなもんですから。これがある騒動に発展することで、「自分は差別なんてしない、良識とモラルのある善良な人間だ」と思っいてた彼の中に、自己矛盾による葛藤と罪悪感が芽生え始めます。
オストルンド監督 「ザ・スクエア」は内側と外側の「境界線」でもあるし、国境でもあるといえる。「内側」は「外側」で起きていることを想起させるし、私たちが責任を持つべき境界線がどこまでなのかを問いかけてもいるんだ。この10年くらい、スウェーデンの社会にもかなりの数の移民が流入しているんだけど、同じ人間として「境界線」の外で起きていることに対して、僕らはどんな役割を担うべきなのか。それを問いかけていると思う。
映画の中には「ザ・スクエア」だけでなく、様々な形の「スクエア」がそこかしこに描かれています。それは必ずしも監督の意図したものではないようですが、映画を見た私は「考え方次第で、どんな場所も“ザ・スクエア”になりうるのではないか」という希望にも思えました。
オストルンド監督 タイトルが「スクエア」だから、映画の中に四角形を探しながら見てしまう人が多いみたいなんだよね。ただ観客がそれを「ザ・スクエア」のルールに結びつけてくれるなら、そうなる可能性はあると思う。「ザ・スクエア」の目的は、人々にその概念について考えてもらうことだし、それによって行動を変えてゆく可能性も増えていくんじゃないかな。
さて最後に、実際の「ザ・スクエア」について。冒頭でご説明したように「ザ・スクエア」は映画に先行し、実際のインスタレーションとして、スウェーデンに3か所、ノルウェーに1か所、設置されています。そこでは一体、どんなことが起こっているんでしょうか。
オストルンド監督 2015年に一番最初に設置したバーナムーでは、機能的障害を持つ人たちが「ザ・スクエア」に立ち「失った生活保護を取り戻したい」と訴え、ニュースになったんだ。スウェーデンから追い出されることになった移民たちが、そこで主張したこともある。「ザ・スクエア」は人間的、人道的なテーマについての主張をする場所として機能しているようだね。僕自身はそれを狙っていたわけじゃないから、へえ、そうやって使うんだ、なーんて思ったけれど、そういう展開だってもちろん大歓迎だ。ある種のムーブメントを起こすことができているんだから。
「ザ・スクエア」は言ってみれば「交通標識」のようなものだと思う。「交通標識」って社会の約束、公共の同意で、政治や宗教とはまったく関係なく皆が従っているよね。つまりそういうものを作ることで、私たち人間は自分たちの行動を変えることができるんだと僕は思っているんだよね。
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