上杉景勝が上洛を拒否し、徳川家康の会津征討の要因となった「直江状」は創作物なのか
大河ドラマ「どうする家康」では、上杉景勝が上洛を拒否したので、徳川家康がついに会津征討を計画した。その引き金になったのが「直江状」である。かつて「直江状」には真贋論争があったが、単なる創作物なのか否か考えることにしよう。
慶長4年(1599)、景勝は入部した会津を支配するため、国許へと戻っていた。しかし翌年、景勝が神指城(福島県会津若松市)の築城を開始したので、謀反の噂が流れた。
そもそも五大老には、在京して豊臣秀頼を支える義務があったが、景勝はその職務を放棄していた。家康は五大老の筆頭として、これらの問題を放置するわけにはいかず、たびたび景勝に上洛を促していた。
一方の景勝にも事情があった。旧臣の藤田信吉が家中から出奔し、家康に景勝に謀反の意があると告げていた。また、景勝の旧領の越後に入封した堀氏は、米を持ち去られた恨みもあり、同じく景勝に謀反の意があると家康に報告した。景勝がこうしたもろもろの不利な条件を抱えて上洛するには、非常にリスクが高かったといえよう。
家康は景勝に上洛する気配がまったくないので、政僧の西笑承兌に命じて、上洛を促す書状を書かせた。慶長5年(1600)4月1日、家康からの書状を受け取った景勝は、家臣の直江兼続に命じて、西笑承兌に返書を送らせた。それが「直江状」であり、内容は美文調ながら痛快きわまるものだった。
家康は「直江状」を一読し、あまりの無礼さに激怒したという。しかし、「直江状」の原本は残っておらず、あるのは写本ばかりである。
「直江状」はかなりの長文である。その要点は、景勝に謀反の意志はなく、堀氏らの讒言を究明し、真相を確かめることを要望したものである。内容は繰り返しが多いうえに、当事者しか知りえない細かい事情が詳しく書かれている。景勝は上洛を拒否し、家康への挑発的な文言もある。
同年6月、家康は「景勝に上洛の意思なし」とみなし、ついに会津征討を決意したのである。会津征討は、関ヶ原合戦の発端となった。
「直江状」の真贋をめぐっては論争となっているが、結論を端的に言えば、創作物の可能性が非常に高いと言える。そもそも、この時代の書状は難解で読みづらいものが多いが、「直江状」は比較的読みやすい。
これだけ、微に入り細を穿ち、細かい内容を記しているのも珍しい。それゆえ、江戸時代になると、「直江状」は寺子屋のテキストとして用いられたほどである。
したがって、「直江状」は家康と景勝の交渉を詳しく知る者が執筆し、写本として広まった可能性が高いのではないだろうか。とはいえ、上杉家が何らかの形で家康に上洛できない旨を知らせたのは事実だろうから、会津征討は避けられなかったのである。