北条泰時が制定した「御成敗式目」は、戦国家法にも大きな影響を与えた
先日、NHKの『知恵泉』で北条泰時が制定した「御成敗式目」を取り上げていた。「御成敗式目」はどのような法で、後世にいかなる影響を与えたのか考えてみよう。
古代において、わが国の基本法典は律令だった。律は刑法、令は行政法に該当し、中国からわが国にもたらされた。7世紀後半から8世紀前半にかけて制定された、「飛鳥浄御原律令」、「大宝律令」、「養老律令」などが有名である。
12世紀後半に鎌倉幕府が成立すると、紛争解決のために武家独自の成文法を制定する機運が高まった。こうして貞永元年(1232)、北条泰時が評定衆に命じて制定したのが、51ヵ条から成る「御成敗式目」である(「貞永式目」、「関東式目」とも)。
「御成敗式目」は行政や訴訟(民事、刑事)について定め、源頼朝以来の規範、慣習、判例などを参照し、成文化されたものである。以後、「御成敗式目」は鎌倉幕府の基本法典となり、追加法も制定された。
「御成敗式目」は鎌倉幕府が滅亡してからも、武家社会に大きな影響力を残した。室町幕府が成立すると、幕府の政治指針として「建武式目」が制定されたが、法令としては「御成敗式目」および追加法が重視された。
急に新たな法典を編纂できるはずもなく、当然といえば当然かもしれない。とはいえ、室町幕府においても追加法が制定され、時代に即応した法規範を定めたのである。
戦国時代になると、戦国大名は領国支配を円滑に行うため、独自の法典を定めた。戦国家法(分国法とも)である。しかし、戦国家法も「御成敗式目」の影響から逃れられなかった。
伊達氏が制定した「塵芥集」、武田氏が制定した「甲州法度次第」、今川氏が制定した「今川仮名目録」などは、すべて「御成敗式目」を参照して作成されたことが明らかにされている。
「御成敗式目」は鎌倉幕府の基本法典であるだけではなく、幕府が滅亡したあとも以後の武家社会に大きな影響を与え続けた。それまでの規範、慣習、判例を整理した北条泰時は、まさしく偉大な功績を残したといえよう。