本日命日を迎えた「石川丈山」と京都ゆかりの地
◆石川丈山◆ 天正11(1583)年~寛文12(1672)年
三河国泉郷(現在の愛知県安城市和泉町)にて、代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の生まれ。遠い親戚には東三河の旗頭であった酒井忠次と合わせ、松平家臣団の双璧と称された西三河の旗頭・石川数正がいる。
一途な性格で早くから頭角を現し、徳川家康の近侍となって、一目置かれる存在となった。豊臣方との一大決戦となった「大坂夏の陣」に参戦すると、一番乗りで敵将を討ち取って功をあげたが、軍令に違反して先駆けしたことで咎めを受けて蟄居の身となり、それがきっかけで武士をやめて妙心寺に入った。
元和3(1617)年頃に旧知で朱子学者であった林羅山(らざん)の薦めによって藤原惺窩(せいか)に師事し、儒学を学ぶと、次第に文武両道との噂が広まり、多くの仕官の誘いが舞い混んだが、これをことごとく断ったという。しかし病気がちであった母親を養うために紀州藩の浅野家に数ヶ月、また京都所司代であった板倉重宗の勧めに従って広島藩の浅野家に13年ほど仕えた。
母が亡くなるとその役割を終えて、退去して京都の相国寺の近くに隠棲し、さらに4年後の寛永18(1641)年には、洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に「凹凸窠(おうとつか)」と命名した住まいを建立した。凸凹は人生そのもの、窼はすべてのものが集うところの意で、身分格式を問わず集まり来たれとの思いを込めていたという。
この時、歌人として名高い木下長嘯子(ちょうしょうし)の歌仙堂(三十六歌仙の肖像を掲げていた)に倣って、林羅山の意見を求めながら、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙としたことから凹凸窠は「詩仙堂」の名で知られるようになった。
丈山の最も得意な分野は漢詩であったが、作庭にも通じており、東本願寺の別邸である渉成園(枳殻邸)の庭園や、洛北の蓮華寺、洛南の酬恩庵の庭園も手掛けたとされいる。隠遁後は清貧を旨として学問に没頭し、30数年を過ごして90歳で死去した。
なお、一説には鷹峯に芸術村を開いた本阿弥光悦、石清水八幡宮に住んだ松花堂昭乗と共に、幕府の意向を受けて洛中の監視をしていたとも言われている。
◆ 丈山の庭園を見るなら渉成園へ ◆
丈山が手掛けたとされる渉成園は、徳川家光の寄進によって造営された東本願寺の別邸にあたり、この庭園を手掛けたのは丈山と徳川家の、時を隔てても浅からぬ縁を感じさせる。
庭園は承応2(1653)年に丈山によって作庭され、全敷地の6分の1を占める広大な印月池をはじめとする頼山陽が選んだ十三景が広がる。以後、近世・近代を通じて門首の隠退所や外賓の接遇所として用いられた。