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平安京さんぽシリーズ⑱ ~古今変わらぬ京都の南端~ 「九条通」を歩く(後編)

山村純也京都の魅力を発信する「らくたび」代表
東寺に比べて石碑が一つ立つだけの西寺跡(※以下の写真も全て筆者が撮影)

 東寺を出て西へ進むと、都の正門として大きな役割を担っていた羅城門跡へ到着。現在は大きな石碑が立ち、公園として整備されています。

 羅城門は平安京の朱雀大路の南の入口に位置し、七間五戸の重層門であったとされますが、その遺跡は現在も発掘されていません。平安時代に強風による二度の倒壊があり、右京の衰えと共に荒廃します。そのため周辺の治安も悪化の一途をたどり、羅城門周辺は、夜になれば近づく者はなかったといわれています。

 そんな背景から、羅城門に巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝や、『今昔物語集』に収録された羅城門の怪奇譚を小説化した、芥川龍之介の小説『羅生門』が生まれました。

南北に細長い公園の南側に石碑が立つ
南北に細長い公園の南側に石碑が立つ

 羅城門跡と同じ場所に祀られているのが矢取地蔵です。神泉苑での雨乞い合戦で空海に敗れた守敏大徳(しゅびんたいとく)が、その悔しさのあまり、羅城門の影から空海に矢を放ちましたが、その時、僧侶の姿をした地蔵菩薩が右肩にその矢を受けて空海を救ったという逸話が残ります。九条通拡張の際に掘り出された多くの無縁仏とともに、町の人々によって大切に守り伝えられています。

 続いて向かうのが西寺跡です。西寺は羅城門から伸びる朱雀大路をはさんで東寺と向かい合うように建てられた官寺で、規模もほぼ現在の東寺と同じであったといわれています。

 東寺は空海に与えられましたが、西寺は守敏に与えられました。守敏は奈良仏教を修め、真言密教にも通じていましたが、雨乞い合戦などで空海とことごとく対立し、敗れました。その結果、守敏の勢力は衰退し、同じく西寺も衰退の一途をたどりました。

講堂のあった場所が小さな山になっており、その中心部に西寺跡の石碑が立つ
講堂のあった場所が小さな山になっており、その中心部に西寺跡の石碑が立つ

 現在は西寺公園として講堂の跡地周辺が整備され、金堂の跡地が南側の唐橋小学校の校庭付近と推定されています。東寺がほぼ完全な形で現存するのに対して、西寺は石碑が一本だけというのが、それぞれの寺院の対照的な歴史を感じさせます。

 西寺跡で紹介したいのが、北東角にあたる場所に鎮座する鎌達(けんたつ)稲荷神社です。平安時代、陰陽師として活躍した安倍晴明の子孫にあたる土御門家の邸内にあった同家の鎮守社と伝えられています。この辺り一帯は、室町後期には土御門家の邸宅を含む敷地となりました。

 境内には難を避けることで人気のサムハラのお守りが置かれており、一条戻り橋で父を蘇らせる逸話を残した浄蔵貴所の塚も残るなど、隠れたパワースポットとして知る人ぞ知る場所となっています。

創建は伏見稲荷大社に匹敵する古さと伝わる
創建は伏見稲荷大社に匹敵する古さと伝わる

 九条通としては葛野大路まで進むことができますが、散策としては九条御前の交差点で終了しましょう。こちらから、南西に斜めの道が伸びていますが、これが西国街道となります。狭義としてこちらから西宮まで、広義でみると下関まで続く歴史的な街道の出発点です。

 これで平安京の一条通から九条通の歩き方を全てお話することができました。通りを巡る散策、次回以降は、縦の通りもご紹介します。

京都の魅力を発信する「らくたび」代表

1973年、京都生まれ。立命館大学在学中にプロの観光ガイドとして京都・奈良を案内。卒業後は大手旅行会社に勤務。2006年4月、京都観光を総合的にプロデュースする「(株)らくたび」を創立。以後、ツアープロデューサー、ツアー講師として活躍。2007年3月に「らくたび文庫」を創刊。現在、NHK文化センター、大阪シティーアカデミー、ウェーブ産経、サンケイリビング新聞社の講師、京都商工会議所の京都検定講師も務める。著書・執筆に『幕末 龍馬の京都案内』、『京都・国宝の美』、『見る 歩く 学ぶ 京都御所』(コトコト)など。京都検定1級取得。

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