「朝鮮(あちら)の服」だけは貶さ(せ?)なかった、日韓併合直前のある日本女性の訪朝記
1900年から1942年まで東京で発行されていた女性週刊誌『婦女新聞』の1906年5月14、21日の上下2回にわたって連載されたコラム「朝鮮婦人の交際振り」を旧知のファッション研究者、井上雅人さんが送ってくれた。1906年といえば、1876年の日朝修好条規締結以来、朝鮮への影響力拡大をはかっていた日本が、朝鮮の権益をめぐる日清戦争、日露戦争に相次いで勝利しつつ、1904年には第1次日韓協約、1905年には第2次日韓協約を通じて朝鮮を保護国化し、1910年の日韓併合を目前にしていた時期である。
コラムは、朝鮮を訪れた上流階級の日本人女性による雑感だ。時代を反映してか全体として、「朝鮮といふ國は穢(むさ)い國です。そして人民は呑氣な人民です」だの、「汚(むさ)くるしい」だの、「貧乏國の気の毒さ」だのと、散々な書きっぷりである。交流してきた上流階級の朝鮮女性たちに関しても「傲慢」だの「負け惜みが強い」だのくさしつつ、(下)の結末で、「併し婦人方の交際振りから何かを見ましても決して愚といふ方の人民ではありません。寧ろ怜悧(りかつ)であるのですから、何でも日本の婦人が確乎(しっかり)と奮發をして交際の道も開き少し教育をしたならば、立派な國民になるであらうと思ひます」と述べているように、まさに植民地主義全開だ。
だが、興味深いのは、(上)の最後の部分である。朝鮮の上流婦人たちは経済的な余裕があるにもかかわらず衣服においては質素だと指摘したうえで、「着物の整然(きちん)として締りのあるのには、實に羨しいと思ひました。他のものに就ては何一つ彼國(あちら)が勝って居るとも思はねば、恥かしなどとは感じませんでしたが着物ばかりはどうも日本服の斯(こ)う裳(すそ)のパッパッと開く不様のよりも朝鮮(あちら)の服の方が遙かに勝つて居ると羨ましうもあり恥かしい心持がいたしました」と結んでいる。
記事を送ってくれた井上さんは戦時中の国民服、標準服について研究した著書『洋服と日本人――国民服というモード』(廣済堂出版)で、「衣服というものは生活の内部にある手触りのある物質的存在」だと指摘している。拙著[『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』(双風舎、現在はPitch communicationsより電子化)においてもこの前提は欠かせないものとなっている。だからこそ衣服、ファッションは、たとえば植民地主義やオリエンタリズムといったイデオロギーとは別の回路からの受容を可能にする。別の回路とは、機能性だったり、モードの要素だったり、ファンタジーだったり、様々だろう。もちろん、イデオロギーという回路も、ある。
記事の筆者が「朝鮮(あちら)の服」(だけ)を貶すことがなかったのはなぜか。「日本服」の裾を気にしていたことからすると、機能性だろうか。だとしたらそれは、彼女たちを当時覆っていたであろう洋装化の波へのコンプレックスからだろうか。やはり、「たかが服、されど服」。興味は尽きない。
(『週刊金曜日』2015年6月19日号「メディアウォッチング」)