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明智光秀は山崎の戦い後に死んだので、生き延びたという説は真っ赤な嘘

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀の胴塚 京都市山科区勧修寺。(写真:イメージマート)

 天正10年(1582)6月13日は、明智光秀が亡くなった日である。ところで、光秀は山崎の戦い後に生き延び、天海になったと言われているが、それが事実なのか考えてみよう。

 天台宗の僧侶・天海は生年に諸説あるが、天文5年(1536)誕生説が有力視されている。没したのは寛永20年(1643)なので、100歳を超える長命だったといわれている。天海は家康、秀忠、家光の3代にわたって徳川家に仕え、江戸幕府の宗教政策に貢献した。

 明智光秀も生年に諸説あるが、享禄元年(1528)誕生説が有力視されているので、天海より10歳ほど年長である。天正10年(1582)6月の山崎の戦い後、光秀が生き延びて天海になったという説は、須藤光暉『大僧正天海』(冨山房、1916)に書かれている。以下、理由を考えてみよう。

 栃木県日光市の明智平は、天海がかつて光秀だったので、明智姓にちなんで「明智平」と命名したという。しかし、天海が「明智平」と命名したという史料はなく、単なるこじつけに過ぎない。

 江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の「秀」字は、光秀の「秀」字を採ったといわれ、光秀=天海が関与したともいわれている。しかし、秀忠の「秀」字を授けたのは豊臣秀吉なので、この説は誤りである。

 天台宗松禅寺(滋賀県大津市)には、「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。この「光秀」は明智光秀のことで、天台宗の僧侶・天海との関係があるという説もあるが、明確な裏付け史料があるわけではない。光秀という名は、珍しいものではない。

 「関ヶ原合戦図屏風」(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)には、鎧を着用した天海と思しき人物の姿が描かれている。天海=光秀を前提とし、軍師的な役割を果たしたとの説がある。しかし、「関ヶ原合戦図屏風」は嘉永7年(1854)成立したもので、根拠としてはとてもアテにならない。

 結論を端的に言えば、光秀が天正10年(1582)6月13日に死んだことは、『兼見卿記』などの一次史料に書かれている。これは、動かし難い事実なのである。

 光秀が生き延びて天海になったという説は、まったくの想像の産物で、根拠のない真っ赤な嘘である。テレビや雑誌などでたびたび特集されているが、デタラメであることを肝に銘じておくべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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