関ヶ原合戦前、毛利輝元がこっそりと阿波に侵攻した不都合な真実
大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成と徳川家康との対決姿勢が明確になったが、実は毛利輝元がこっそりと阿波に侵攻し、占拠した事実はあまり知られていない。その辺りを取り上げることにしよう。
慶長5年(1600)7月17日、三奉行(長束正家、前田玄以、増田長盛)は「内府ちかひの条々」を諸大名に発し、家康に宣戦布告した。その前日、三成らの不穏な動きを知った蜂須賀家政は、毛利家の家臣・堅田元慶に書状を送った(「毛利家文書」)。
輝元が三成らに加担しようとしていることを知った家政は、その軽率な行動を諫めたのである。最初、家政はこの件を噂話と思っていたが、安国寺恵瓊から情報を得て、輝元が加担したことに大変驚いたようである。
家政の諌言が通じなかったのは、輝元の大坂入城によって明らかである。その後、輝元は家政の領国の阿波に兵を送り込み、猪山城(=徳島城。徳島市)を占拠した。
7月29日、前田玄以、増田長盛、長束正家の3人と輝元が連署して、毛利氏の家臣・佐波広忠に判物を送った(『萩藩閥閲録』)。内容は、猪山城の山上山下、およびそのほかでも陣取りを禁止すること、もし乱暴狼藉を働く者がいれば速やかに成敗することである。
この判物には大老の輝元だけなく、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が判を加えているので、一連の猪山城の占拠は豊臣政権の意思と考えてよい。
輝元は東軍に属した家政を封じ込めるため、豊臣公儀の名のもと、猪山城の占拠を正当化したのである。それは、同時に輝元の領土拡大志向を示すものでもあった。
同日、輝元は配下の村上元吉・景親兄弟、佐波広忠の3人に対して、3ヵ条にわたる定(=掟)を授けた(『萩藩閥閲録』)。内容の1つ目は、村上景親、同元吉、佐波広忠の三人が阿波の支配を行うことである。
2つ目は、地下人(=阿波の郷村の人々)については、蜂須賀氏の家臣と相談して、措置を決めることである。3つ目は、狼藉の停止である。
一般的に、百姓などは新しい勢力が入部すると、抵抗することが珍しくなかった。したがって、彼らが抵抗する際は、阿波に残った蜂須賀氏の家臣に助力を求めるようにしたのだろう。
8月8日、輝元は村上景親、同元吉を呼び寄せたので、代わりに配下の椋梨景良、仁保民部少輔、三輪元徳を阿波に送り込んだ旨を佐波広忠に知らせた(『萩藩閥閲録』)。
書状には、「万端よく相談して、番などに緩みが出ないように」と書いている。阿波支配の中心人物は、佐波広忠だった。ちなみに村上元吉は伊予へ、村上景親は伊勢にそれぞれ出兵を命じられた。結局、毛利氏の阿波占拠は、関ヶ原合戦後も続いたのである。
結論を先取りするようだが、西軍の敗戦後の9月19日、毛利氏は和睦を結んで阿波を返還した。毛利方の軍勢は大坂へ引き上げ、その旨は家政に伝えられた。9月25日、猪山城は蜂須賀氏の家臣・益田彦四郎に引き渡され、毛利氏による阿波占拠は終わったのである。
主要参考文献
渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)