22年前の偉業の裏にあった伯楽の信念と岡部幸雄らホースマンそれぞれのドラマ
フランスのG1で1番人気に
日本時間8月16日、フランス・ドーヴィル競馬場でジャックルマロワ賞が行われた。優勝したのはエネイブルでもお馴染みのJ・ゴスデンとL・デットーリ のコンビが送り込んだ1番人気馬パレスピアー。丁度22年前の同じ日、このレースをやはり1番人気で制したのが、藤沢和雄が管理して岡部幸雄が騎乗したタイキシャトルだ。日本競馬界にとっては大きなターニングポイントになったこのレースの裏話を記そう。
同じ年の夏、モーリスドギース賞(G1)をシーキングザパールが優勝していた。調教師・森秀行と騎手・武豊の黄金コンビが、日本調教馬による初の海外G1制覇という偉業を達成したのだ。その丁度1週間後に行われたのがジャックルマロワ賞だった。モーリスドギース賞を勝利した森は、レース後のインタビューで「来週、出走するタイキシャトルはもっと強いですよ」と発言。実際、日本国内での実績はタイキシャトルが1枚も2枚も上。この時点で10戦9勝、2着1回。マイルチャンピオンシップ、スプリンターズS、そして安田記念とG1を3勝もしていた。この実績に加えて森の発言もあり、日本のチャンピオンマイラーはフランスでも瞬く間に注目の的になった。結果、かの国の伝統のG1で圧倒的な1番人気に推されるまでになったのだ。
フランスでの強力な助っ人
そんな中、少しの不安を感じていた男がいた。当時、フランスで開業していた調教師のトニー・クラウトだ。彼は若い時分にイギリスのニューマーケットで修業をした事があった。同じ時期に同じイギリスの競馬の聖地で修業をしていたのが後にフランスで開業するパスカル・バリーであり、藤沢和雄だった。藤沢を“カズ”と呼ぶクラウトは言った。
「カズは一所懸命に馬を知ろうと努力をしていました。そして『日本で調教師になったらいつかヨーロッパに馬を連れて戻って来る』と言っていました。だからその際は『私にサポートさせてほしい』と話していたんだ」
そんな若い時の夢物語を実現したのがタイキシャトルの遠征だった。藤沢はフランスに遠征するにあたり、約束通りクラウトに頼み、彼の厩舎へ馬を入れたのだ。これにクラウトが歓迎して応えた。クラウトを“トニー”とファーストネームで呼ぶ藤沢は、当時、言っていた。
「トニーは自分の厩舎の中から、日陰になって、目の前の馬の往来も比較的少ない馬房をわざわざシャトルのために空けてくれました」
そこへ迎え入れてくれたわけだが、これには後日談があり、後にクラウト厩舎に入るエルコンドルパサーやナカヤマフェスタも同じ馬房を用意される事になるのだった。
自信を持って日本と同じ形をやり通す
閑話休題。こうやって後方支援をしてくれたクラウトは、日本から来たチャンピオンマイラーを見て「おや?!」と思った。
「いつ見てものんびりしている感じで、寝ている事もたびたび。レースへ向けて気持ちが乗って来ない感じで、体も太い感じ。『もう少し強い調教をした方が良いのではないか?』と思いました」
実際にそう助言を受けたと言うのが、当時、藤沢厩舎で調教助手をしていた松田幸吉だ。フランス遠征に立ち会っていた松田は、ある朝、クラウトに助言されたと言う。
「『調教が軽過ぎるんじゃないか?』と言われました」
クラウト厩舎はフランスの馬の街として有名なシャンティイにあった。広大な調教場や競馬場もある街の中で、彼の厩舎はラモーレという地区に位置していた。そこからシャンティイ内にある方々の調教場へ行けるが、クラウト厩舎での通常の調教は移動する事なく、ラモーレ地区で行っていた。タイキシャトルもそれに倣ったのだが、このラモーレの調教場には坂路コースがなく、小回りのダートコースのみ。元々蹄だけに弱点のあるタイキシャトルにとって、過度な調教は課せられないロケーションだったのだ。地元の調教師に指摘され、松田は「考えている以上に緩い調教になってしまったか?」と悩んだ。そして、ボスに相談した。
これに対し、当時、藤沢は次のように言っていた。
「海外へ行くとむしろ張り切ってやり過ぎる傾向がある。でも、オーバーワークになったら良い状態に戻すのは難しい。トニーが正しいとか正しくないという意味ではなくて、海外だからと言って普段と違う事をやる必要はないんだ。今まで日本でやってきた通り、自信を持って同じ事をやり通せば良いんだ」
それ以前にもタイキブリザードやシンコウキングで海外遠征をしていた。それらの経験則を踏まえ、指揮官はそう感じていた。だから、松田に対しても「自分を信じて普段通りにやれ」と伝えた。この言葉を聞き、松田の悩みは吹き飛んだ。その後も調教スタイルを変える事はなく、本番にバトンをつなぐと、これを受けた岡部は見事にタイキシャトルを先頭でゴールにいざなってみせた。
「ぬいぐるみみたいなゴロンとした体で、もっと絞った方が良いかと思ったけど、さすがカズだね。強かった。まいりましたよ」
後にクラウト厩舎を訪ねた際、彼は実際にタイキシャトルのぬいぐるみを手にしながらそう言って苦笑してみせた。
それぞれのドラマ
ちなみにレース後、岡部はそっと涙をぬぐうのだが、これも「海外G1制覇が嬉しかったから」という単純な理由ではなかった。今でこそ若い騎手の海外修業も珍しくないが、当時は滅多にない時代。岡部は「海外かぶれ」など言われた事もあったと語る。そんな時、背中を押してくれたのがオーナーの赤沢胖だった。タイキシャトルのオーナーである大樹ファームの当時の代表、赤沢芳樹の父親である。そして、調教師となった藤沢もまた、クロフネミステリーやタイキブリザードなどに岡部を配し、海を越えていた。このメンバーで勝ったからこそ、岡部の瞳からこぼれるモノがあったのだ。タイキシャトルの偉業は、沢山の人達の様々なドラマが成就した瞬間だったのである。
あれから22年が経ち、日本の競馬界にとって世界は遠い存在ではなくなった。しかし、まさかこんな形で海外遠征が困難になる時代が来るとは想像出来なかった。新型コロナウィルス騒動が1日も早く収束し、日本馬がまた海外で活躍する日が来る事を願っている。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)