シッチェス映画祭最優秀作『ジュピターズ・ムーン』(1月27日公開)が告白する、“罪深きヨーロッパ”
『ジュピターズ・ムーン』はいろんな意味でヨーロッパ的作品だ。
まず、何より題名がそうだ。ジュピター(木星)のムーン(月)は衛星エウロパ。EUROPA、これはそのままスペイン語ではヨーロッパのことである。
次に、移民問題がテーマとなっている点で。
2015年以降、ヨーロッパは未曽有の“移民危機”を迎えている。UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所)とOIM(国際移住機関)の発表によると、2015年ヨーロッパに流入した移民は100万人を超えた。97万2500人がボートで地中海を渡り、3万4000人がトルコ経由で陸路でギリシャ、ブルガリアにやって来た。
このうち約半数の50万人が、この作品の主人公アリアンと同じ内戦から逃げて来たシリア難民だった。
主人公がシリア難民である意味
90年代の経済成長期に労働力として受け入れた経験がある、ヨーロッパの移民への基本的な態度は「ウェルカム」だった。特に、内戦や戦争の被害者である難民に対しては人道的な考え方から常に手厚く迎えるのが、ルールだった。
しかし今回は数字のケタが違う。しかもヨーロッパ全体が経済危機に沈んでおり、大量の“潜在的失業者”に国境を開く余裕はない。かつて“不可欠”だった移民は“問題”となり今“危機”となった。
そこでどうしたか?
この作品にあるように、とりあえず難民キャンプに収容しておこうと決めた。つまり難民キャンプとは、国には入れないが追い返しもしないという折衷案の産物であり、人道主義と国益保護という現実主義の妥協策として生まれたものなのだ。
そのキャンプの生活環境の過酷さは、UNICEF(国際連合児童基金)らが繰り返し訴えている通りである。スペインでは、シリア難民の子供の姿を映し募金を訴えるUNICEFのCMが盛んに流されている。国境を開くという政治的な判断が見送られた今、キャンプに食料や毛布を支給するのは個人の善意に頼らざるを得ない。私を含めてヨーロッパに住む人たちの多くが、難民キャンプの存在には多少なりとも後ろめたさを感じているのではないだろうか。
飛ぶのはスーパーマン、浮くのは聖人
そのヨーロッパの罪悪感が、アリアンに空中浮遊の奇跡を起こさせたのではないか?
アリアンはスーパーマンのように飛行はしない。まるで重力がなくなったかのようにプカプカと浮くのである。
空中浮遊にはキリスト教的な意味がある。
宗教画を見ればわかる通り、天使や聖人は大抵宙に浮いている。キリスト教的な観点からすれば、空中浮遊とは天に昇る前段階の限られた人だけに起こる特殊能力とされているのだ。しかも、アリアンの父親は大工である。私は無神論者だが、カトリック教国スペインに住む者の常識としてこれだけは知っていた。キリストの養父ナザレのヨセフの職業は、大工だったことを。
戦争の被害者としてヨーロッパに逃げて来るも、受け入れられるどころか射殺されかけて難民キャンプに収容されたアリアンには、空中浮遊能力という奇跡が起こる。
これをアリアンの体を借りてキリストが降りて来たと解釈すれば、そこには何かの啓示、神の教えがあるのではないかと思うのが普通。非常に安っぽい解釈で恐縮だが、人道と博愛の危機にある今のヨーロッパを戒めるために現れたのではないか、“神は見ている”というメッセージではないのか、と。
映像と物語のキリスト教的な自然と不自然
ただ、こうしたことを考えさせてくれたからと言って、『ジュピターズ・ムーン』が2017年シッチェス映画祭の最優秀作品賞に値するかと言えば、私は「ノー」だ。
審査員も言っているように、ヨーロッパの今を取り上げてSF化したことは評価に値する。だが、空中浮遊の特殊効果はスーパーヒーローがびゅんびゅん空を飛ぶ映像を見慣れた目からすると、スペクタクルではない。汚職医師の心が洗われていくプロセスも性急過ぎて私は不自然に思えた。
宗教的な浮き方ということではあれで正しいのかもしれないし、空中浮遊という奇跡は人間性を一変させるほどインパクトがあるのかもしれない。無神論者の私には人がただ浮いているとしか見えないが、キリスト教文化圏の人たちはそこに重要で濃密な意味を付加したり見出したりしているのだろう。
1月27日日本公開、ぜひみなさんの意見を聞いてみたい。