豊臣方の敗北を決定づけた、名将・塙直之の最期を探る
昨年の大河ドラマ「どうする家康」では、大坂夏の陣の模様が描かれていたが、塙直之はほとんど登場しなかった。直之は次々と主君を変えながら、豊臣方に与した武将である。武芸にも優れており、豊臣方からも期待されていたが、その最期がいかなるものだったのか確認しよう。
慶長20年(1615)4月29日の樫井の戦いで、岡部則綱と先陣争いをした直之は、無念にも戦死した。直之の最期を描くのは、『亀田大隅盛高綱泉州表合戦覚書』という史料である。以下、その内容から直之の最期を探ることにしよう。
直之は槍でもって高綱に戦いを挑むと、高綱の家来の菅野兵左衛門が刀を抜いて参上した。兵左衛門が直之の左足の甲を斬り付けると、同じく高綱の家臣の菅野右加衛門が直之に馬乗りになって、その首に槍を突き立てた。
そして、右加衛門は、兵左衛門に首を取らせたのである。右加衛門が兵左衛門に首を取らせたのは、兵左衛門が最初に直之を斬り付けたので、当時の軍事慣行として首を取る優先権を有していたからだった。
なお、直之を討ち取った武将については、上記のほかに①多胡助左衛門(浅野氏家臣)、②上田宗箇という2つの説がある。『駿府記』には、上田宗箇が直之を討ち取ったと書かれている。結局、豊臣方は直之以下、芦田作内(宇喜多氏旧臣)ら指揮官クラスの12名が討ち取られ、多くの将兵をも失ったのである。
本多正純が鍋島勝茂に送った書状にも、豊臣方の敗戦について書かれている(『鍋島勝茂譜考補』)。こちらにも、浅野長晟の軍勢が豊臣方の軍勢を数多く討ち取ったとあり、直之が討ち取られたことも書かれている。
重要なことは、「もはや豊臣方に正体がなく、武具なども放置したまま逃亡したので、間もなく降参するでしょう」と記されていることだ。それほど、豊臣方の樫井の戦いにおける敗戦の影響は大きかった。
同時に興味深いのは、豊臣方によって回文(順次に回覧して用件を伝える文書)が送られているという記述である。正純は回文を持参した者があれば捕らえるよう、勝茂に依頼していた。回文の内容は、おそらく豊臣方に味方になるよう要請したものと考えられるが、豊臣方の切羽詰まった状況を知ることができる。
泉佐野市南中樫井には、直之の墓がある。寛永8年(1631)の塙団右衛門直之の十七年回忌に際して、紀州藩士の小笠原作右衛門がこの墓碑を建立したといわれている。
その隣には、同じ豊臣方として戦った淡輪重政の墓がある。重政の墓は、寛永16年(1639)に会津藩士の本山三郎右衛門(淡輪氏の一族)が建立したという。なお、建立したのは、淡輪新兵衛(重政の甥)という説もある。
樫井の戦いにおける徳川方の勝利後の5月5日、徳川家康・秀忠父子は滞在していた二条城と伏見城をそれぞれ出発すると、淀川筋のルートを経て、淀(京都市伏見区)、八幡(京都府八幡市)と南下した。
その日の夜、家康は星田(大阪府交野)市)、秀忠は砂(同四条畷市)に到着したのである(『駿府記』)。こうして、家康は豊臣方との最後の戦いに臨んだのである。
主要参考文献
笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年)
二木謙一『大坂の陣 証言・史上最大の攻防戦』(中公新書、1983年)