【光る君へ】大評判となった清少納言『枕草子』には、何が書かれていたのか
大河ドラマ「光る君へ」では、「ききょう」(清少納言)が執筆した『枕草子』がなかなかの評判になっていた。同書には、いったい何が書かれていたのか考えてみよう。
正暦5年(994)から長徳2年(995)の頃、藤原定子(一条天皇の中宮)の勧めにより、清少納言は『枕草子』の執筆に着手したという。「枕」とは寝具ではなく、「歌枕」(歌語辞典)、「枕頭書」(座右の備忘録)、「枕中書」(宮仕え必携)などの諸説があるが、定説はない。
長徳2年(995)の長徳の変(伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に弓を射た事件)により、定子の兄弟でもあった2人は失脚した。2人を探索する際、検非違使が手荒な捜索を行ったので、ショックを受けた定子は発作的に髪を切り、出家したとみなされた。
清少納言は仕えていた定子が髪を切ったことを知り、大きなショックを受けた。しかも、清少納言は藤原道長と内通しているという噂を流されたので、出仕を取り止めて、実家に引き籠もった。清少納言が道長と内通しているというのは、事実無根だろう。
その後、清少納言は定子から下賜された紙に、気分転換に歌枕や木草鳥虫の名を書いた。たまたま清少納言のもとを来訪した源経房が興味を持ち、意外にも受けて評判となったのである。
当時は、現代のようにすべて書きおろしてから、書籍として刊行したわけではなかった。少し書いては人に見てもらい、感触が良ければ書き続けたのである。やがて、世の人は清少納言の作品を絶賛したので、その後も書き続けられることになった。
『枕草子』は約300段で構成され、定子に仕えた宮中における体験、四季の自然や日常生活の観察、「ものづくし」などが書かれている。簡潔かつ知性あふれた文章で、「をかし」という美的理念に基づき執筆された。その独自な感性が人々に受け入れられたのだろう。
とはいえ、『枕草子』の評価はさまざまである。自身が仕えた定子への敬慕の念がうかがわれる反面、宮廷内における清少納言の上流志向を手厳しく批判する意見もあり、読む人によって評価はさまざまである。