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本能寺の変。天皇と公家は信長討ちに際して、明智光秀に加担していたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺跡。(写真:イメージマート)

 今も謎多き本能寺の変の真相。すでに朝廷黒幕説(朝廷が明智光秀に織田信長を討てと命じた説)は否定されたが、いまだに信じている向きもあろう。そこで今回は根拠の一つとされた、勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』の内容を確認することにしよう。

 天正10年(1582)6月2日、光秀が本能寺を襲撃し、信長を自害に追い込んだ。しかし、光秀の時代は長く続かず、6月13日の山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、逃亡の途中で土民に討たれたのである。その後、光秀の家臣も捕らえられた。

 光秀の重臣の斎藤利三も近江堅田に潜んでいたが、猪飼秀貞に捕縛された。利三の2人の子は斬殺されたという。6月18日、利三は車で京都市中を引き回しにされると、六条河原で斬られた。光秀と利三の首と胴体は繋がれ、三条粟田口に晒された。

 武家伝奏を務め、信長と親交があった晴豊は、利三が市中を引き回された様子を見て、「かれ(彼)など信長打(討)談合衆也」と書き記した。これを現代語訳するならば、「彼(利三)などは、信長を討つときに談合したメンバーのひとりだ」ということになろう。

 むろん、光秀がひとりで信長討ちを決行できるわけはないので、重臣たる利三に相談を持ち掛けたのは、当然のことになろう。実際、利三の活躍がなければ、信長討ちは成功しなかったに違いない。

 ところで、かつて立花京子氏は、晴豊の「かれ(彼)など信長打(討)談合衆也」という言葉を巡って、「晴豊は利三も加わった<談合>について、何か知っていたとしか考えられない」と指摘した。これは、いったいどう考えたらよいのだろうか。

 続けて立花氏は、「それは光秀家中の<談合>ではなく、晴豊の参加していた<談合>とみるべきであろう」と指摘する。そして、「ここに公家衆と光秀家中からなる場で、信長打倒計画についての談合がなされていた」と結論付けたのである。

 この結論には、信長が馬揃え、譲位問題などで朝廷に攻勢をかけていたという前提がある。しかし、馬揃えは正親町天皇が希望したもので、実際は大いに喜んだことが確認され、譲位も正親町天皇が望んだことであった。

 つまり、先述した「公家衆と光秀家中からなる場で、信長打倒計画についての談合がなされていた」というのは根拠がないことで、そのように史料を深読みする必要はないのである。

主要参考文献

立花京子「信長をめぐる朝廷の群像」(安部龍太郎ほか『真説 本能寺の変』集英社、2002年)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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