豊臣秀吉の逆鱗に触れ、追放された3人の武将
現在でも社長や上司の逆鱗に触れ、閑職に追いやられる人はいるだろう。それは戦国時代も同じことで、豊臣秀吉は決して配下の武将の失態などを見逃さなかった。その結果、秀吉から追放された3人の武将を紹介することにしよう。
◎神子田正治(?~1587)
正治は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに出陣した。その際、味方は徳川家康・織田信雄の連合軍に負けていたが、正治は首一つを取ったので、そのまま帰陣した。
秀吉は正治の功を称えたが、正治は秀吉に対して「これしきの手柄で喜んでいては、敵に勝てますまい」と言い放った。
この言葉を聞いた秀吉は激昂したが、正治は続けて「大局を見ずして、局地戦での戦闘で功を評価するのは愚将である」と放言した。
この言葉に秀吉の怒りは頂点に達し、正治が持ち場を離れた敵前逃亡を行ったとし、改易のうえ高野山に追放したのである。
◎仙石秀久(1552~1614)
秀久は、天正14年(1586)の九州征伐(島津征伐)に出陣した。戸次川の戦いで、秀久率いる軍勢は島津軍と交戦し、最初は優勢に戦いを進めた。
しかし、島津軍の反撃に遭い、秀久は惨敗を喫したのである。それどころか、従軍していた長宗我部信親、十河存保は戦死し、秀久は這う這うの体で逃げ帰った。
秀久は敗走する軍勢の指揮すら満足にせず、誰よりも早く小倉城に逃げ帰った。そのうえ、秀久は配下の者を引き連れて、本拠の讃岐国へ逃げ帰ったのである。
これを聞いた秀吉は激怒し、秀久を改易のうえ高野山に追放したのである。しかし、運が良かったのか、秀久は天正18年(1590)に許された。
◎尾藤知宣
知宣は秀久の失敗を受けて、天正15年(1587)の九州征伐に出陣した。その際、宮部氏が籠る根白坂砦が攻撃されたので(根白坂の戦い)、豊臣秀長(秀吉の弟)が救援に向かおうとした。
しかし、知宣は慎重な性格だったのか、秀長が救援に行こうとするのを引き留めた。その後、藤堂高虎の奮戦もあって、根白坂の戦いで豊臣軍は勝利した。
潰滅した島津軍は敗走したが、ここでも知宣は追撃策を支持しなかったので、決定的なチャンスを逃したのである。この話を聞いた秀吉は激怒し、知宣を改易して追放したのである。
主要参考文献
桑田忠親『太閤家臣団』(新人物往来社、1971年)