徳川家康が死を意識した、絶体絶命の場面3選
今年の大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さんが弱気でおどおどした若き徳川家康を演じて話題となった。家康は織田信長、豊臣秀吉が亡くなったあと、すんなりと天下人になったように見えるが、実際には苦難の道のりがあった。そのうち3つを取り上げることにしよう。
◎三方ヶ原の戦い
元亀3年(1572)12月の三方ヶ原(静岡県浜松市北区三方原町)の戦いで、徳川家康は武田信玄の戦った。戦いは短時間で決し、徳川方は約2千もの戦死者を出して敗走した。
一方の武田方の戦死者は、わずか2百余にすぎなかったという。ただ、残念なことに、合戦の詳しい経過は不明な点が多い。徳川方は多くの有力な家臣を失ったので、大打撃を受けたのである。
家康は敗走する途中、あまりの恐怖に脱糞したと伝わっているが、この話はまったくの嘘である。また、敗戦に猛反省した家康は、その悔しさを忘れぬため自画像を描かせたという。これが、世にいう「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』徳川美術館所蔵)である。
しかし、その像は三方ヶ原の戦いの直後に描かれたものではないことが明らかにされ、今となっては誤りであると指摘されている。
◎神君伊賀越
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で、織田信長は明智光秀に急襲され自害した。このとき徳川家康は、和泉堺(大阪府堺市)にいたが、光秀に討たれるという危機が迫っていた。
家康は自害しようと考えたが、それは家臣らの説得により取り止めた。家康は一刻も早く領国を三河へ戻るため、伊賀を越えて船で三河へ帰国しようと考えた。その帰国ルートが「神君伊賀越」と称されるものである。
当時、家康に従っていた者たちは、「徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)」の面々がいたとはいえ、わずか34名に過ぎなかったという。そのルートには諸説あって、不明な点が多い。
いずれにしても家康は34名ではなく、もっと多くの将兵を引き連れていたのではないかといわれている。神君伊賀越は家康にとって危機だったが、後世の史料によって、神懸かり的に脚色された可能性がある。
◎大坂夏の陣
慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、家康は大坂城を落とし、豊臣家を滅亡に追い込んだ。その戦いが圧倒的な大勝利だったことは疑いない。
しかし、後世に成った史料によると、家康は豊臣方の真田信繁の攻撃を受けて、逃げに逃げまくったという。家康が信繁の攻撃により、ピンチに陥ったのは事実であるが、実際はそこまで酷くなかった。しょせんは多勢に無勢であり、家康はすぐに撃退に成功し、直後に信繁は討たれた。
こうした話が広まった理由は、一つには敗者である信繁への人々の温かいまなざしがあったからだと思われる。信繁の敢闘精神を称え、事実ではないとはいえ、家康が逃げまくった物語を作り上げたと考えられる。
もう一つは、「アンチ家康」の存在である。家康には「腹黒い」、「狸親父」というイメージがあるが、当時はたしかに「家康嫌い」の人々がいて、家康に悪いレッテルを貼ったのである。それは、のちに講談などで世の人々の間に広まった。
◎まとめ
家康の最大の危機を3つ取り上げたが、三方ヶ原の戦いを除くと、事実か否か怪しいものがある。家康は江戸幕府を開いたので、神格化されたり、逆に貶められることもあった。その辺りの見極めは重要だろう。
本年はご愛読いただき、誠にありがとうございました。新しい年が皆様にとって、良い年になりますことを祈念申し上げます。
主要参考文献
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2006年)
柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社、2017年)
渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)