残酷すぎて放映できなかった、大岡弥四郎のあまりにむごたらしい最期
前回の大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名の計画の全貌が明らかになった。今回は、その引き金になったという大岡弥四郎事件と弥四郎のむごたらしい最期を取り上げることにしよう。
天正3年(1575)、大岡弥四郎事件が勃発した。事件の概要や大岡弥四郎の事蹟は、『三河物語』、『改正三河後風土記』などの二次史料にしか書かれていない。弥四郎は中間(ちゅうげん:下層の侍)と言われ、徳川家康の馬丁(馬を引く職務)だったという。
時期は不明ながら、弥四郎の才覚が松平信康に評価され、岡崎城下の町奉行に登用された。次に、事件に触れておこう。天正2年(1574)、弥四郎は松平新右衛門らを引き入れ、武田勝頼に通じようとした。この一件が実行に移されようとしたのが、翌年のことである。
弥四郎は武田方の三河侵攻を助力し、徳川方の滅亡を企図した。弥四郎の計画は、「家康が岡崎城を訪ねてきた」と虚を言って開門させ、武田軍を城内に引き入れることだった。その後、信康を自害させて岡崎城を占拠し、さらに浜松城の家康を討つ作戦だった。
山田重英は弥四郎に誘われたが、熟慮の末に与同せず、信康に弥四郎の謀反を密告した。一方で、家康は弥四郎の不穏な動き謀反を察知し、事前に調査していたという。弥四郎の謀反は築山殿の耳にも入っていた。築山殿は信康を取り立てることをなど条件として、武田氏に身を投じようとした。
ところが、弥四郎の計画は露見し、信康はことの次第を家康に報告した。その後、岡崎町奉行の大岡助宗が信康の命によって、弥四郎を絡め取ったのである。誠にあっけない幕切れだったが、弥四郎への処罰は極めて厳しいものとなった。
助宗の命を受けた大久保忠世は、弥四郎の妻子5人を念志原(根石原/愛知県岡崎市)で磔刑に処した。人々に事件を知らしめるためである。弥四郎は馬の鞍に縛り付けられ、見せしめのため浜松(静岡県浜松市)の市中を引き回された。
その後、弥四郎は妻子が磔にされている念志原(根石原)へ連れて行かれた。残酷にも、妻子の最期の瞬間を見せられたのである。結局、弥四郎は岡崎の町で生きたまま首まで埋められ、鋸引きに処せられた。
鋸引きの刑は、一気に首を斬るのではない。往来する人々に少しずつ竹鋸で首を引かせ、地獄のような痛みを味合わせ、落命に至らしめるのである。弥四郎が亡くなったのは、7日目のことだった。