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【「麒麟がくる」コラム】足利義昭と織田信長に両属した明智光秀。光秀は義昭から離れたかったのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長と足利義昭の2人に仕えていた光秀。義昭との関係には悩んでいたようだ。(提供:アフロ)

■苦悩する明智光秀

 大河ドラマ「麒麟がくる」では、比叡山の焼き討ち後、明智光秀が足利義昭と織田信長との間で苦悩した姿が垣間見えた。実は比叡山焼き討ちが行われた同じ年、光秀は義昭との関係に苦悩していたという。

 以下、関係する史料を取り上げて、考えてみることにしよう。

■年月日未詳(元亀2年・1571年に比定)の明智光秀書状

 年月日未詳(元亀2年・1571年に比定)の明智光秀書状は、義昭の側近・曽我助乗に宛てたものである(「神田孝平氏所蔵文書」)。光秀と義昭の関係を物語る重要な史料だ。

 従来、この文書の解釈については、高柳光壽氏の見解(『明智光秀』吉川弘文館)が有力視されてきた。それは、「光秀が義昭から暇をもらう件で、助乗から御懇志をいただきかたじけない。とにかく(義昭の)行く末に見込みがないので、義昭から暇をもらって、(光秀が)薙髪するよう取り成しを頼む」という解釈である。

 高柳氏は理由は不明としながら、「光秀は義昭に奉公するのは嫌だ、将来の見込みがない、だから追放して入道するようにさせてくれ」と述べている。

■私見による解釈

 私の解釈は少し違う。それは、以下のとおりである。

光秀は自らの進退について、義昭に(助乗を通して)暇を申し上げたところ、助乗から御懇志をいただきかたじけない。とにかく(光秀の)行く末の身上が成り立ち難いので、すぐに暇をもらえるよう、(光秀自身が)出家をする覚悟なので、取り成しを(助乗に)お願いしたい。

 というものだ。ちなみにこの続きで、光秀は鞍を助乗に進呈する旨を記している。

 私の解釈では、身上が成り立ち難いのは義昭でなく光秀であり、光秀は出家をすると言っているのではなく、出家する覚悟を示したという点に高柳説と相違がある。

 普通に考えると、いくら家臣の助乗に対してであれ、光秀が「義昭の将来には見込みがない」などと失礼なことを言わないだろう。

 出家をするというのも、光秀の覚悟を示したに過ぎないと考える。ただし、光秀が義昭のもとから離れたいという結論は、同じことである。

■義昭は光秀を譴責したのか

 また、この史料を収録した『大日本史料』には、年未詳8月14日付の織田信長書状(細川藤孝宛)を元亀2年に比定して収録している(「革島文書」)。

 綱文では「足利義昭、明智光秀を譴責す」と書いているが、書状の内容はそう読めない。

 信長は将軍から指示された条々を了承し、条々の頭書についてもよく考えたうえで光秀に申し付けたので、その旨を義昭に御披露願いたい、と藤孝に依頼した内容なのである。別に、義昭が光秀を譴責した内容ではないのだ。

 おそらく、先の光秀書状(曽我助乗宛)が義昭に暇を請うた内容なので、光秀と義昭の関係が悪化したと捉えて「足利義昭、明智光秀を譴責す」と考えたのだろう。

■元亀2年12月の段階で関係が悪化

 『大日本史料』では上記の2つの史料に関連付け、光秀が助乗に対して、元亀2年(1571)12月に下京の壷底分の地子(土地税)21貫200文を与えた史料を載せている(『古簡雑纂』)。

 地子を与えた理由は、助乗に公儀(=義昭)への取り成しを依頼したからだった。取り成しの具体的な中身は不明であるが、『大日本史料』などは、先述のとおり光秀が義昭から暇をもらいたいという1件の可能性が高いと考えたのであろう。

 仮に、これが正しければ、光秀は元亀2年(1571)12月の段階で、早くも義昭との関係がこじれていたことになる。この2年後、義昭が信長と決裂すると、光秀は義昭の味方にはならず、信長の配下に加わった。すでに、この頃から伏線があったのだろうか?

 いずれにしても、この時点の光秀は、義昭との関係で思い悩んでいたようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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