吐血地獄からの生還―2
胃腸にできた腫瘍からの出血を止める治療は成功し、私はICU(集中治療室)に3日いた後、HCU(準集中治療室)に移された。病院が作成した当初の計画案には「入院3週間、手術なし」と書かれていたので、4月末には退院できるものと考えていた。
ところが医者から思いがけない宣告を受ける。腫瘍が悪性のため手術しなければならないと言う。まさかと思ったが受け入れるしかなかった。退院できると考えていた4月末に手術の日が設定された。
手術の5日前から一般病棟に移され、手術に備えることになる。手術後のリハビリの予行として、肺の機能を強化する訓練や病院の廊下を歩き回ることが日課となった。その単調な生活の中で過去の記憶が次々に蘇ってくる。
私がこの病院で前回手術を受けたのは1988年だが、その頃の日本は戦後の絶頂期を迎えていた。憲法9条によって軍事を米国に委ね、経済に力を集中する保守本流の「軽武装、経済重視路線」は、日本経済を米国の覇権を脅かす存在にした。
総理就任直前に竹下登は「世界一物語」を講演して歩いた。日本は世界一の健康長寿国で、しかも世界で最も格差の少ない経済大国を実現したというのである。その竹下は内輪の会話では、米ソ対立の冷戦構造を利用し、日本国民と米国を騙して日本経済を成長させるやり方を、「狡猾なる外交術」と表現した。
メディアや学者を動員して国民に9条の重要さを教え、野党に護憲運動をやらせ、政権交代が起これば親ソ反米政権が誕生すると米国に思わせ、その軍事要求をけん制してきた自民党政権の目的は、米国以上の経済力を実現することだった。
当時の天谷直弘通産事務次官は「町人国家論」を唱えた。「士農工商」という江戸時代の身分制度は侍が最上位で商人は最下位だ。商人は侍に逆らえず、唾を吐きかけられても耐えるしかない。しかし歴史は、権力を握る侍が商人から借金しなければ国家(藩)の経営ができなくなった事実を教えている。天谷はそれを日米関係に当てはめた。
憲法9条で刀を持たない日本は米国という侍の言いなりになるしかない。しかし商人が金で侍を操ったように、日本は町人国家を目指して経済を強化すれば、米国を操れるようになる。
それが1985年に現実となった。世界一の金貸し国だった米国が世界一の借金国に転落し、日本が世界一の金貸し国になった。しかも米国は日本の輸出攻勢で貿易収支は大赤字、さらにレーガン政権の減税政策で経常収支も赤字という「双子の赤字」を抱えた。
米国にとって日本は保護の対象からソ連を上回る「脅威」となった。米国の日本に対する逆襲が始まる。1985年は時代の変わり目を象徴する出来事が相次いだ。まず2月に「自社馴れ合い政治」の象徴ともいえる田中角栄が脳梗塞に倒れ、「55年体制」は終焉を迎えた。
「田中の最後を見届けたい」と言って政治記者になった私には、あまりにもあっけない幕切れだった。病に倒れた原因は田中派の分裂にある。中曽根総理と手を組んだ金丸信、竹下登らが「世代交代」を訴えて田中派の中にグループを作った。
裏切られた思いの田中は酒量が増え、それが病に倒れる原因となる。ただ田中は私との最後の面会で「これは革命だ。革命は成功しない。俺が潰してみせる」と言った。すると国会の予算委員会が野党の反対でびくとも動かなくなる。予算が成立しなければ金丸幹事長と竹下大蔵大臣の責任だと言われ、金丸は追い詰められた。
国会を動かなくした社会党と公明党は、田中の意を受けていた。前回のブログで野党は権力闘争に参加せず、権力闘争は自民党内の5派閥で行われたと書いたが、付け加えれば、社会党と公明党は田中の「隠れ応援団」だった。田中が倒れると、たちまち野党の抵抗は消え、予算は無事成立して政治は「中曽根VS金丸」時代を迎えた。
3月、ソ連共産党書記長に改革派のミハエル・ゴルバチョフが就任した。戦後米国の「ソ連封じ込め戦略」を作った外交官のジョージ・ケナンは、米国がソ連と衝突することに反対し、西側世界を結束させてソ連を封じ込めれば、いずれソ連は自壊すると説いた。
「封じ込め戦略」により米国の敵国だったドイツと日本は「反共の防波堤」として米国から保護され、そしてケナンの予言通り、ソ連共産党を内部から変えようとするゴルバチョフが登場した。これが冷戦の終結につながる。それは日本を繁栄に導いた「軽武装、経済重視路線」の前提が崩れることをも意味した。
4月、電電公社が民営化されNTTが誕生した。英国でも国営通信会社が民営化され、米国では巨大独占企業AT&Tが7分割され競争原理が導入された。世界は「情報化時代」を迎え、通信料金を値下げした国が覇権を握ると考えられたからである。
土光臨調はNTT7分割を考えたが、労働組合や与野党の既得権益派が反対して2分割に終わり、米国では電話料金が下がったのに、日本はほとんど下がらなかった。それがIT分野で日本が米国から立ち遅れる結果を生む。
そして9月、プラザ合意によって米国は日本に大幅な円高を求めてきた。1ドル235円が100円台半ばになり、日本の輸出産業は壊滅的打撃を受けた。その頃、米議会スタッフが日本の国会を視察に来た。日本経済はなぜ強いのか。その背後で政治はどのような役割を果たしているのかを調べにきた。
米議会スタッフと日本の若手政治家、政治学者、政治記者が懇談した。米側は「なぜ自民党政権が続いているのか」、「派閥とは何か」、「野党の役割は何か」を聞いてきた。しかし日本側はうまく答えられない。それを見て私は「日本の政治構造は誰も知らないし、誰にも説明できない。それで良いのだろうか」と思った。
その頃、「政界のドン」となった金丸幹事長から昼食に誘われた。誘われたのが私1人だったので驚いた。私は金丸に米議会スタッフの視察を説明し、「政権交代のない日本の政治構造はおかしい。政権交代できる仕組みにすべきだ」と言った。
すると金丸が「君の言う通りだ。日本の政治はもうもたない」と言ったのである。自社馴れ合いの国対政治の中枢にいたのは金丸だ。その金丸が「もうもたない」と限界を感じていたことに私は衝撃を受けた。
金丸は「世代交代」を訴えて田中角栄に対抗、次いで長期政権を狙う中曽根に対抗して竹下政権を誕生させた。しかし竹下が総理に就任すると、2人の関係は微妙になる。政権交代可能な政治を考える金丸と、中曽根と同様に政権交代のない政治が望ましいと考える竹下は異なる方向を向いていた。
私が35年前に大腸がんの手術を終えて退院したのはその頃だ。政権交代可能な政治を作るには中選挙区制を小選挙区制に変えるというのが一般的だったが、私はそれよりNHKの国会中継を変えることが重要だと考えていた。
NHKは公共放送なのになぜもっと国会を放送しないのか。ごく一部しか放送しないから議員はその時だけパフォーマンスを演じる。そして国民は「与野党激突」という実態とは異なる政治を見せられ信じ込まされる。NHKになぜもっと放送しないのかを問うと「慣例です」としか答えない。そこで私は世界の議会中継がどうなっているのかを調べた。
すると日本の国会と最も関係の深い英国議会と米国議会が、議会のテレビ中継を法律で禁じてきたことを知る。テレビ中継を認めれば、議会は大衆迎合のポピュリズムに陥り、民主主義を堕落させて国民のためにならないという理由だ。
日本ではNHKの国会中継で国会は国民に開かれていると考え、民主主義を堕落させるポピュリズムに陥るとは考えない。むしろ国民はポピュリズムこそ民主主義と思い込み、政権交代がなくとも「激突」する野党に拍手喝采していた。
日本の国会で「審議拒否」と「強行採決」が繰り返されるのは、NHKの国会中継に問題がある。その頃の私は旧郵政省を担当し、江川晃正という異色の官僚と親しくなった。江川はNHKを中心とする放送秩序に異を唱え、多種多様な放送を認める官僚だった。NHK以外のチャンネルが国会を放送すれば良い訳だ。
70年代の終わり、ベトナム戦争に敗れた米国に、ポピュリズムに陥らないことを条件に映像公開を認めようとする動きが出てきた。CIAと国防総省の嘘の情報に議会が騙され、ベトナム戦争に賛成してしまった反省から、米国では「サンシャイン・リフォーム」と呼ばれる政治改革が始まった。
「日の光(サンシャイン)に当てれば腐敗は生まれない」を合言葉に、情報公開法が作られ、官僚の情報に頼らずに済むよう議会のシンクタンク機能が強化された。その改革の一環としてケーブルテレビに議会中継専門局CーSPAN(シー・スパン)が誕生する。
議会が議場にカメラを設置し、撮影した映像を無料で誰にでも提供する。地上波テレビはニュースに利用するだけだが、多チャンネルのケーブルテレビには議会審議を編集なしに放送する非営利法人CーSPANが生まれた。
1989年5月、私は休暇を利用してワシントンのCーSPANを見学した。CーSPANは私が所属するTBSに比べ、まるで学校放送のような小さな放送局だった。しかし驚いたのは当時「民主化の嵐」が吹き荒れていた東欧の議会審議を放送していたことだった。
米国にいながら他国の議会が見られる。各国が議会審議を見せ合うようになれば、無用な対立は減るかもしれないと私は思った。広報担当副社長に「日本でもこういうテレビをやりたい」と言うと、彼は机から日本人の名刺を取り出し、「これまで来た日本人はみな配給権を欲しがるだけだった。テレビ局を作りたいと言ったのはあなたが初めてだ」と言った。
C-SPANの創立者ブライアン・ラム社長の信念は「視聴率を意識するところからテレビは堕落する」というもので、議会審議以外の番組も一切の編集を行わない。それが可能なのは地上波ではないケーブルテレビだからだ。
ケーブルテレビには加入者が支払う月額料金と引き換えに、30チャンネルのベーシック・サービスがある。それ以外のチャンネルを見たければ加入者は追加料金を払う。C-SPANはベーシック・チャンネルなので、誰も見なくとも料金収入は入る。
C-SPANの取り分は一世帯月額6セント(約8円)だった。だがケーブルテレビ加入者は五千万世帯もあり、月に4億円程度の収入になる計算だ。議会審議の映像は無料だから経営は十分に可能で、C-SPANは中継車を購入し、全米の高校を巡回して高校生の政治討論番組を毎日中継していた。
それ以外にも政治家をスタジオに招き、視聴者が電話で直接質問する「コール・イン」という番組がある。さらにワシントンに数多くあるシンクタンクの講演を録画放送する。娯楽性は皆無だが「1人でも視聴者がいれば我々は存在する理由がある」とC-SPANは胸を張った。
議員たちは最初C-SPANの登場に抵抗した。79年に下院議員の4分の3が賛成して放送は始まるが、上院には反対が多く開始はさらに8年遅れた。ポピュリズムに陥らないことを証明するため、C-SPANは与野党議員が批判し合う委員会審議を放送しない。代わりに有識者を喚問して与野党議員が議論する公聴会を主に放送する。
そして法案の本会議採決は必ず生中継される。米国議会には党議拘束がないので採決が多数党有利とは限らない。最後までハラハラドキドキの展開となる。1票差で多数党の法案が否決されたりすると、視聴者からは歓声が上がる。C-SPANの放送内容はNHKの国会中継とは異なるものだった。
ポピュリズムに陥らないことを議員たちが納得し、米議会上院が放送を認めると、英国議会も同じ仕組みを取り入れることを決めた。放送開始はまもなくだと言う。そうした情報を持って帰国すると、私はTBSの先輩である村木良彦を訪ねた。村木は私が入社した直後に退社し、テレビマンユニオンを立ち上げたが、テレビ界で私が最も尊敬する先輩だった。
私の「国会テレビ」構想に賛同し、C-SPANの配給権を取得する交渉に協力を約束してくれた。ただ米国では主流となったケーブルテレビが日本ではまだ事業の許可が下りていない。しかし日本のテレビ界は米国より何でも10年遅れだから、日本でもまもなく始まるだろうと私は高をくくっていた。
それより国会議員の理解を得なければならない。それも自民党から共産党まですべての政党の承認が必要だ。私は「趣意書」を書いて議員を説得して歩いた。多くの議員から賛同を得たが、竹下は「民度の低い日本で誰が見るんかいのう」と首を傾げた。だが金丸は「良いこんだ」と賛成した。
87年に誕生した竹下内閣は消費税導入を政権の課題としたが、88年6月にリクルート事件が発覚し、消費増税と相まって国民の政治不信が増大した。竹下は自民党内に「政治改革推進本部」を立ち上げ、政治不信の解消に乗り出す一方、89年5月に自らは予算成立と引き換えに退陣の道を選んだ。
後継の宇野宗佑は就任と同時に愛人スキャンダルが飛び出し、7月の参議院選挙で自民党は結党後初めて参議院で過半数を割り込む大惨敗となる。宇野総理も退陣し、海部俊樹政権が誕生したその日、私は羽田孜自民党国会改革委員長から呼ばれて「政治改革推進本部」に参考人として出席した。(文中敬称略、つづく)