徳川家康に豊臣秀吉の陣羽織を所望するよう懇願したのは、豊臣秀長と浅野長政だった
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が豊臣秀吉の陣羽織を所望する場面があった。一説によると、豊臣秀長(秀吉の弟)と浅野長政が家康に懇願したというので、『名将言行録』により再現することにしよう。
家康が上京したとき秀長の屋敷でもてなされ、陣羽織を着用した秀吉も同席した。秀吉が席を離れると、秀長と長政が家康に「あの陣羽織をご所望ください」と述べた。
しかし、家康は「私は今まで、人に無心したことがない」と断わった。家康からすれば、何か不信感を抱いたに違いない。
すると、2人は「あの陣羽織は秀吉が鎧の上に着るものなので、今回の和睦が成立しましたら、陣羽織をご所望なさって『以後、秀吉様には鎧を着せますまい』とおっしゃれば、秀吉さまもたいそうお喜びになるはず」と懇願した。
そのようなことで、家康は快諾した。家康が受け入れたのは、秀吉を喜ばせることで、完全にこれまでの遺恨を払拭しようとしたことだろう。
その後、家康は秀吉とともに大坂城に向かい、諸大名が列席するなかで面会に臨んだ。秀吉は「毛利、宇喜多以下の諸大名にはよくお聞きいただきたい。わしは早く母に会いたいので、家康殿を明日、本国に返すつもりだ」と述べた。
そして、家康に向かって「今日はことのほか寒いので、小袖を着られよ。一服差し上げて道中の餞(はなむけ)にするので、肩衣を脱いでください」と述べた。
すると家康は秀吉に「秀吉さまの陣羽織を私にくださいませんか」と述べた。秀吉は「これはわしの陣羽織なので、差し上げるわけにはいかん」と答えた。
家康は「そうお聞きすれば、なおさらいただきたい。以後、秀吉様に出陣させることがないようにと思っております」と述べた。秀吉は大変喜び、「そういうことなら、喜んで差し上げよう」と言い、自ら家康に陣羽織を着せたのである。
その後、秀吉は諸大名に向かって、「今、家康殿はわしに出陣させることはないと言われた。おのおのも聞いたことであろう。わしは良き妹婿を持った果報者だ」と上機嫌だったというのである。
こうして、家康と秀吉は互いの不信感を一掃し、より緊密な関係を結ぶことになった。この逸話は後世に成った『名将言行録』に書かれたものであるが、江戸幕府の公式な記録である『徳川実紀』にも記されている。
家康は配下の者に対して、自らが着用した陣羽織を与えることがあった。清法寺(埼玉県鴻巣市)には、内藤玄蕃が家康から拝領した陣羽織が残っている。
つまり、秀吉から陣羽織を与えられるということは、家康が臣従した証であり、秀長と長政はあらかじめ家康に懇願することで、あらかじめ演出したものだろう。芝居ががっているが、『徳川実紀』にも書かれているので、あり得た話なのかもしれない。