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若者の“自己顕示欲”は高まっているのか? 19歳少年に見る現代社会の闇

河合薫健康社会学者(Ph.D)
著者:Natasha d.H

「僕も……目立ちたがり屋なんで、彼の気持ち……ちょっとわかるんです」

「私も、なんかわかる。だから逆に、それをホントにやっちゃうのってすごいなぁって思いました」

スナック菓子につまようじを混入したり、万引きしたようにみせかけた動画を『YouTube』にアップした少年(19才)が、18日朝逮捕された。

上記のコメントは、今朝(22日)「目覚ましテレビ’(CX)」で、少年と同じ19歳の若者たちが語った言葉である。

番組では、同世代の男女数名に少年がアップしていた動画を見てもらい、率直な感想や意見を聞いていた。

「同じように見て欲しくない」「幼すぎる」などの否定的な意見が多い中、こっそりと、そう、実にこっそりと小さな声で、「気持ちわかる」と語る若者が、画面に映し出されていたのである。

おそらく反対意見を言っていた“19歳”たちも、どこかでその気持ちに共感するところがあったんじゃないだろうか。うん、あると思う。

断定的なことを言うべきではないのかもしれないけど、少なくとも私はそう思った。なんせ大学の学生や、新入社員たちをインタビューをすると、「認めて欲しかった」という言葉を耳にすることが多いから。

目立って認めて欲しい。自分がここにいるぞ!っと。自分だってこんなことできるんだぞ! って、心の中で叫んでいる若者に出会うことが多い。しかも、その数は確実に増えている。「承認欲求」「自己顕示欲」ーーー。言葉が違えど、どちらも「自分の居場所」を求める若者たちが増えていて、それが彼らの「危険で、フツーでは考えられないような言動」に駆り立ててるんじゃないか? そう思えてならないのである。

承認欲求は、近年、社会心理学でも取り上げられることが多く、若い世代の心理状況の分析にとりわけ用いられる。

その際、引用されるのがマズローの欲求段階説。生理的欲求と安全の欲求が比較的満たされている社会では、承認欲求は必然的に高まるとされているのだ。

ここでの承認欲求とは、「他人と関わりたい、他人と同じようにしたい」という親和の欲求、「自分が集団から価値ある存在と認められたい、称賛・尊敬される人になりたい」といった自我の欲求である。 

例えば、フェイスブックやツイッターに、やたらと自分のプライベートをアップする現象や、若い世代の仲間至上主義も、「親和の欲求」と「自我の欲求」を満たすもの。これが、現代の承認欲求、と解釈できるのである。

一方、若い世代は承認欲求という言葉を、大抵の場合ネガティブに用いる。

「アイツ、承認欲求、強すぎ」

といった具合だ。

承認欲求にこだわるくせに、承認欲求を批判する。承認されたいという気持ちを自分が抱いてしまうことに、なんらかの恥ずかしさというか、不甲斐なさを感じ、その矛盾した感情を、他者に向けるのだろう。

そんな彼等の複雑な感情は、講義でも垣間見ることができる。

ある講義で、「つながりがあることの良い面と悪い面」を、学生に尋ねたところ……

良い面に、

・ホッとできる

・仲間がいると元気になる

・がんばれる

といった答えに加え、

「承認欲求が満たされる」

と答えた学生が数人いた。

悪い面でも、

・強い人に合わせなくちゃいけなくなる

・間違っている方向に突っ走る

・なぁなぁになる

といった答えの他に、

「キャラを演じるのがしんどい」

「承認欲求に振り回されて、ストレスがたまる」

と答えた学生がいたのだ。

「承認欲求に振り回されるって、どういうこと?」と尋ねたところ、

「ホントの自分じゃないみたいで、すごいイヤになる。このあいだもサークルで、ボランティアに行くことになった。でも、僕は行きたくなかった。社会貢献とかあんまり興味ないし、ホントの僕は自分のことしか考えてないし、人と違うことをやりたい。でも、そういうのって協調性がないって批判される。社会貢献意識が高いヤツのほうが、評価されるんです。だから、認められる行動をしなきゃならなくなる。それが、しんどい」

“認められる行動をとらなきゃ”って言いきってしまうあたりが、学生の未熟さなのだが、講義終了後に学生たちが、「自分もそう」「自分もしんどい」と、メールを送ってくる。

講義のときに発言しないで、こっそりとメールする。これも、周りの視線への過剰反応。とにもかくにも、承認欲求に振り回されているのである。

私は小4から中学生までの多感な時期に、日本人が1人もいないアメリカの学校に通っていた経験がある。自分の名前をやっとローマ字で書ける程度で、ひとりぼっちでアメリカ人しかないエレメンタリースクールに放り出されたのだ。

おそらくその影響だろう。相手のちょっとした表情や、その場に漂う空気を敏感に感じ取れるようになった。言葉のわからない国で、子どもなりに必死に五感をフル活用して、コミュニケーションをとっていたのだ。

といっても、自分の“皮膚が薄く”なっていることに気付いたのは、帰国したあと。中学生になって、友だち=全世界 という状況の中で、その洞察力が邪魔になった。周りの視線、空気、雰囲気などに、皮膚がやたらと敏感になっていて、それがしんどかった。

しかも、空気を読むことが求められる日本で、過剰に空気を感じてしまうと、自分の言いたいことが言えなくなる。上手く説明できないのだが、人間関係はときに、相手の心に気が付かないほうが上手くいくことがあったのだ。

なので、必死で鈍感になる努力をした。女子を避け、男子ばかりと話すようになり、わざと勝手に振る舞うようにもなった。

まぁ、もともとわがままで、自由奔放な少女だったので、「私は、いいワガママ!」なんて自分を正当化し、自分を守っていたのである。

ツイッター、フェイスブック、ラインなど、“仲間”たちの視線が可視化される時代では、過剰なまでに承認欲求にこだわる若者が増えたとしても、不思議じゃない。可視化された社会では、手に取るようにその評価がわかるから、がんじがらめになる。他人が認めない自分になるのが、とにかく怖い。

私が、“洞察力”の強さに、翻弄されたのと同じだ。

だが、若いときほど、他人の目を気にせず振る舞ったほうがいい。時には仲間とぶつかり合い、傷つけ合うことで、人間関係の難しさを学んでいく大切な時間を若いときに経験したほうがいい。

そんな感情のぶつかり合いの中で、自分の未熟さや勝手さ、責任、他者との関わり方、というものを学んでいく。

実際は嫌われるようなことを言う人が好かれることもあるし、自分の我を通す人が評価されることもある。そこに、磨かれた自己があるかないかが、問題なのだ。「認められるためには、まずは、自らを磨け!」それしかない。そのためにはぶつかり合う人間関係の場をもたなければならない。

ん? そっか。大人たちが、ぶつかる人間関係を避けるようになった? これが、承認欲求に飢える若者たちを量産しているのかもしれません。  

健康社会学者(Ph.D)

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。 新刊『40歳で何者にもなれなかったぼくらはどう生きるか』話題沸騰中(https://amzn.asia/d/6ypJ2bt)。「人の働き方は環境がつくる」をテーマに学術研究、執筆メディア活動。働く人々のインタビューをフィールドワークとして、その数は900人超。ベストセラー「他人をバカにしたがる男たち」「コロナショックと昭和おじさん社会」「残念な職場」「THE HOPE 50歳はどこへ消えたー半径3メートルの幸福論」等多数。

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