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首都圏連続不審死事件・木嶋佳苗死刑囚の「ある決意」の行方

篠田博之月刊『創』編集長
『週刊新潮』4月20日号手記に書かれた「決意」はその後…

4月14日に最高裁で上告が棄却され、5月9日に死刑が確定した木嶋佳苗死刑囚に4月21日に接見、それを前後して手紙や電報でのやりとりも行った。その経緯については6月7日に発売された月刊『創』7月号に詳しく書いたが、ここで簡単に触れておこう。

木嶋さんとは確か1審の頃に手紙を出し、返事をもらった記憶があるが、その後はやりとりもしていなかった。今回、改めて手紙を書いたのは、『週刊新潮』4月20日号に掲載された「余命を諦めた『木嶋佳苗』の東京拘置所から愛をこめて」と題された手記を読んだのがきっかけだった。6ページにわたる長文で、興味深い内容だった。

手記発表の動機について、彼女は、母親に「ある決意」を示すことだったと書いていた。その決意とは、死刑確定後に早期執行を望むということだという。手記の最後の方にこう書かれていた。

《生みの母が私の生命を否定している以上、確定後に私は法相に対し、早期執行の要請をします。これこそ「ある決意」に他なりません。》

記事は「遺言手記」とも書かれており、木嶋さんが刑の確定後、早期執行の要請をするという決意を示したものだった。これまで死刑確定後に早期執行を要請した死刑囚は何人かいるが、例えば池田小事件の宅間守死刑囚もそのひとりだ。そして実際に彼は、約1年という短期間に刑を執行された。

もともと法律では、死刑確定者は半年以内に刑を執行すると書かれているのだが、現実には再審請求が出されたりするケースが多く、法律通りに刑が執行されることはない。しかし、本人がそれを望んでいる場合は、早期執行がなされるのだった。だから本当に木嶋さんが法務大臣に早期執行を要請すれば、早い時期に執行がなされる恐れがあった。

ちなみに木嶋さんはそういう決意をするに至った母親との確執についてこう書いていた。

《4年前から私は、「拘置所日記」をブログで始め、その前年から後に小説としてまとめる自叙伝も書いていました。つまり、裁判員裁判の一審判決言い渡し直後から出版社との付き合いを始めたわけですが、母は、執筆をやめ出版社と縁を断たなければ一切の支援を打ち切る、弟妹や甥姪たちとの交流も禁じると宣告し、それは確かに実行されました。》

《実際にサポートをしなくなった母によって否定されたも同然だった私の生命が判決で再び否定されると思う時、「ある決意」が頭をよぎるようになりました。》

母親についてはこうも書いていた。

《私の父は妻である母に心を蝕まれた結果、還暦で自死を選びました。私が30歳のときです。4人の子ども達に残された遺言状を見るまで父の懊悩や2人の不仲など知る由もなかったし、限界まで追い詰められていたことに気付けなかった4人は遺骸の前で慟哭するほかなかった。母は父の親族から葬儀の喪主になることを許されなかったほどです。》

手記はなかなか重たい内容だった。その手記について、私は東京新聞の連載コラムで紹介し、最後にこう書いた。

《今回、木嶋死刑囚が何年かつづってきたブログを全て読み返した。以前、本欄で彼女に言及した記事も読んでくれていることや、林眞須美死刑囚や死刑制度についての言及など、興味深い記述も多かった。できれば早期執行を望むのでなく、死刑制度についての考えなどを今後も表明してほしい。木嶋死刑囚にはそう伝えたい。》

そしてその記事のコピーを同封した手紙を彼女に送ったのだった。

私は宮崎勤死刑囚(既に執行)とも10年以上つきあったし、林眞須美死刑囚とも十数年のつきあいになる。これまで接した死刑囚には、自ら早期執行を求めていた者もいた。その一人は奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)で、1審の奈良地裁での死刑判決の後、控訴すべきかどうか悩んでいた彼からは頻繁に手紙が届いた。

彼は1審の裁判の時から一貫して、「生きていてもしかたない」と語り、死刑を望んでいたのだが、私は一貫してそれに反対していた。どう考えても死んでしまうことが、罪を償うことになるとは思えなかったからだ。しかし、結局、彼は1審判決後、弁護人が控訴したのを取り下げて自ら死刑を確定させてしまった。「これまでお世話になりました」という別れの手紙をもらって奈良へ駆けつけた時には、その早朝に移送されましたと係官に告げられ呆然としたことを覚えている。

ただもちろん、早期執行を望むといっても、それぞれ事情は異なる。木嶋佳苗さんは『週刊新潮』の手記で、こう書いていた。

「まったくもって自殺願望ではなく、生きてゆく自信がない、それだけです」

その手記に私が興味を覚えたのは、もうひとつ、死刑が確定して接見禁止となった時に備えて、彼女が周到に準備をしていたことを知ったからだ。

彼女は2015年に獄中結婚により改姓しているが、今回の手記によると、結婚した男性が交通事故で入院し、面会や差し入れなどの支援ができなくなったため、昨年9月に離婚し、別の男性と再婚した。ところが元夫が快復後復縁を求めたため、養子縁組。さらに別の女性とも今年2月に養子縁組した。

「これらは偏に、上告棄却され、死刑確定の地位になったときの処遇に備えた自衛手段です」という。

ちょうど和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚も最高裁で上告棄却の決定がなされたのは2009年4月だった。その後、判決訂正申し立てがなされ、それが棄却されて死刑が確定という手順になるのだが、その確定処遇に至る経緯も、眞須美さんと木嶋さんのケースを比べるとなかなか興味深いのだが、これについては割愛しよう。興味のある人は『創』7月号を読んでいただきたい。

接見では木嶋さんといろいろな話をしたのだが、聞きたいことを聞く時間もないまま係官に「もう時間ですから」と告げられた。彼女が立ち上がりかけた時に、慌てて「再審請求はしないのですか」と尋ねた。「それはしません」という答えだった。そこで「早期執行を求めるという件は?」と畳みかけるように訊くと、「それはしないかもしれない」との答えだった。恐らく彼女を支援してきた人たちも、法相に早期執行を要請するという話については、一斉に反対したのだろうと思う。

木嶋さんは「木嶋佳苗の拘置所日記」というブログを支援男性の手によって立ち上げており、最高裁判決を経てどんなふうに思いを語るのか関心が持たれたが、死刑判決後、既に何回もブログは更新されている。その多くが、先頃発売された『BUTTER』という小説への激しい非難だった。首都圏連続不審死事件をモデルにしたと発売元の新潮社が広告などにうたっていることに対して彼女は激しく怒っていた。

ブログでは何度もその小説への非難が書き綴られているのだが、その中で、5月17日付の「判決確定その後」と題したブログではこうも書いていた。

《5月9日付けで最高裁判所が判決訂正申立てを棄却したことから「死刑判決確定」と報道されました。

ですが、17日現在、これまで通り未決の被告人と同じ生活をしております。手紙の発受や面会、差し入れや自弁購入も許可されています。

とはいえ、今月中には死刑確定者として処遇する旨の告知を受けることになるでしょう。

いつどのように変更されるかは、全然分かりません。東京拘置所長殿が良識ある人だと信じています。

判決報道を見ると、ユリウス・カエサルの時代から人は変わっていないのだと実感しました。

人間は自分の見たいものしか見ないものなのですね。 自分の都合のいいように考えてしまう人がいかに多いことか。

「週刊新潮」手記について、たくさんのご意見を頂戴しました。ありがとうございます。もうちょっと頑張って生きてみようと考えているところです。》

「もうちょっと頑張って生きてみようと考えている」というのが、いろいろな人の意見を得て考えた、彼女なりの「ある決意」に対する結論だった。

その記述を読んでホッとした。ぜひ頑張って生きてほしいと思う。

《追補》奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚が自ら控訴を取り下げて死刑を確定させてしまったことについては、昨年11月に女児の父親が手記を公開したことをめぐって、このヤフーニュース個人に記事を書いた。興味ある人は参照してほしい。事件から10数年経ているのに、父親はいまだに娘を失った喪失感に襲われていた。死ぬ人間は全てを終わりにしてしまうが、生きている人間は不条理な喪失感にいつまでも苦しめられる。罪を償うとはどういうことなのか、考えさせられた事件だった。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20161117-00064547/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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