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豊臣秀吉が徳川家康に「羽柴氏」、「豊臣姓」を与えたワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉が徳川家康を臣従させることに成功した。その後、秀吉は家康を親族大名(家康の妻は秀吉の妹)として処遇し、「羽柴氏」、「豊臣姓」を与えた。なぜ、秀吉がそのようにしたのかを考えてみよう。

 秀吉は家康と和睦を結ぶ際、妻として妹の朝日(旭)姫を送り込んだ。家康の上洛を命じたい際は、疑いを解くため母の大政所を家康のもとに遣わした。家康の上洛後、秀吉は権中納言を斡旋するなどし、格別の計らいで処遇した。

 関白だった秀吉は、やがて太政大臣となり、天皇から豊臣姓を下賜された。以後、秀吉は諸大名に「羽柴氏」、「豊臣姓」を与え、家康も例外ではなかった。したがって、形の上では徳川家康ではなく、羽柴家康というのが正しいのかもしれない。

 大名当主が名字を重臣に与え、配下に組み込むことは決して珍しいことではない。御着城(兵庫県姫路市)主の小寺氏は、配下の黒田氏に小寺氏の名字を名乗らせた。それゆえ、黒田官兵衛は一時期、小寺官兵衛と名乗っていたが、小寺氏が追放されると、もとの黒田氏に復した。

 備前などを支配した宇喜多氏は、重臣に宇喜多氏の名字ではなく浮田氏を与えていた。いずれにしても、主従関係を強化する方策だったのは疑いない。

 秀吉の場合も同じことで、諸大名を独自の武家官位制で序列化し、そのうえで「羽柴氏」、「豊臣姓」を与えることで臣従させたのである。

 これまでは多くの知行を与えることが指標だったが、秀吉は官職を利用し、序列を可視化させることで大名統制を図ったと言えるのかもしれない。

 しかし、天正16年(1588)に後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、織田信雄は豊臣姓でなく平姓を用い、家康も豊臣姓でなく源姓を使用した。

 いかに彼らが臣従したとはいえ、信雄は主人筋の大名でもあり、家康は東海地方で威勢を誇る大名であった。秀吉には、彼らに対する遠慮があったのではないかと指摘されている。

 ところで、近年において、豊臣は本姓なので、豊臣秀吉、豊臣秀頼と呼ぶのはおかしいので、それぞれ羽柴秀吉、羽柴秀頼と呼ぶべきだとの提言がなされた。

 それは、徳川家康を本姓を用いた源家康と呼ばないのと同じ理屈である。したがって、近年は羽柴秀吉、羽柴秀頼と呼ぶケースが増えてきた。

 しかし、近年の研究によると、秀頼の例で言えば、「羽柴秀頼」と書かれた史料はないという。源頼朝は源氏の嫡流なので、名字がなかった。秀頼の場合も同じことで、豊臣氏の嫡流なので、名字がなかったのではないかと指摘されている。傾聴すべき見解であると思う。

主要参考文献

福田千鶴『豊臣秀頼』(吉川弘文館、2014年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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