イチローはきっと「長生き」する
オリンピック選手などのトップアスリートやノーベル賞受賞者、チェスのグランドマスターなど、身体や頭脳のゲームプレイヤーの寿命が平均よりも長いことはわかっている。激しい身体的運動をすると強い酸化ストレスが加わってタンパク質や脂質、DNAなどに損傷を受けるが、こうした研究結果と実際のアスリートらの寿命は矛盾する。なぜなのだろうか。
トップアスリートは総じて長寿だ
大リーグのシアトル・マリナーズでプレーしていたイチローがベンチ入りメンバーから外れ、今後は球団の一員(会長付特別補佐)としてサポートに徹するようだ。完全な引退というわけではないそうだが、今季、イチローが試合に出ることはない。
もしこのまま現役を退いたとしても、イチローは「野球の研究を続ける」といっている。残念ながら日本球界への復帰はなさそうだが、大リーグと野球の発展のために今後も力を尽くしていくつもりなのだろう。
イチローのようなトップアスリートが総じて長寿なのは、これまでの統計的な研究からわかっている。それまでのトップアスリートの死亡率と寿命についての14研究を比較した2010年の論文(※10)によれば、長距離走や水泳などの有酸素運動(aerobic)をする競技や中距離走やサッカーなど有酸素と無酸素運動(anaerobic)との混合競技のアスリートの寿命は長く、野球やアメフト、ラグビーなどの無酸素運動の競技アスリートの寿命で長くなる傾向はみられなかった。トップアスリート全体をみれば、総じて死亡率が低く、寿命が長いことがわかったという。
この論文では各研究を有酸素と無酸素の競技に分けているが、これは最大酸素摂取量(average maximal oxygen uptake、VO2 max)による区分けだ。この評価では、有酸素運動の能力と長時間の運動持久力がわかるが、自転車競技、クロスカントリー、水泳などは最大酸素摂取量が大きいとされる。一方、瞬発力が要求される野球やアメフトなどを無酸素運動系の競技にわけたというわけだ。
スペインの研究者が米国のメイヨークリニックが出版している医学雑誌に発表した2014年の論文(※2)では、それまでに出たトップアスリートの寿命を調べた10研究を比較している。10研究を合計すると4万2807人(女性707人)のトップアスリートのデータを調べたことになるというが、彼らは一般人よりも長生きであり、その理由はおそらく心血管疾患とがんにかかりにくいことだろうと推測している。10研究の中で一般人よりアスリートのほうが、がんリスクが高いとしたのは1研究(1.05:95%CI:0.90-1.23、95%の信頼区間でバラ付きが0.90から1.23の間。一般人を1にした時のアスリートの生存率が1.05という意味)だけだった。
2015年に出た同様の内容の1980年以降の57研究を比較した論文(※3)によれば、2010年の論文とは逆に野球やサッカー、バスケットボール、自転車競技のトップアスリートの寿命が長いようだ。この論文では、持久力と瞬発力が混在している競技のアスリートで長寿が特徴的としている。
トップアスリートの寿命については、オリンピックのメダリストに絞った研究もある。2015年に英国の「British Journal of Sports Medicine」という雑誌に出た論文(※4)では、1896年のアテネ五輪から2010年のバンクーバー冬季五輪までメダルを獲得した9カ国の1万5174人のトップアスリートとそれらの国々の平均的な寿命を比較している。
この論文によれば、メダリストは一般人よりも平均して2.8歳も長生きということがわかった。金銀銅といったメダルの色は無関係で、瞬発系競技者(1.05:95%CI:1.01-1.08)よりも持久系競技や持久系と筋力系のミックス競技者(1.13:95%CI:1.09-1.17、1.11:1.01-1.13)のほうが生存率が高かったという。
オリンピックのメダリストがメダルを取ってからの生存率。上は金銀銅のメダルの色、下は持久系、ミックス、筋力系といった競技別。メダルの色ではそれほど違いがなく、競技の種類によって生存率に違いがあることがわかる。Via:Philip M. Clarke, et al., "Survival of the fittest: retrospective cohort study of the longevity of Olympic medallists in the modern era." British Journal of Sports Medicine, 2015
ノーベル賞受賞者やチェスのグランドマスターも
様々なジャンルのトップに到達したような人たちは総じて長寿だ。
ノーベル賞受賞者はその時点で存命なことが条件だが、受賞時点ですでに高齢の場合も多い。1901〜1950年のノーベル賞受賞者(物理学賞と化学賞)と候補者と推定された研究者について、その年度による賞金の実際の価値の違いを差し引いた上で彼らの寿命を調べた論文(※5)によれば、受賞者は候補者より1.4歳長生きし、同じ時代の人と比べて1〜2歳も長生きしたことがわかっている。もっとも、この時代は各国で政治経済的な環境が大きく違うため、米国では受賞者のほうが候補者より2.08歳長生きだったのに比べ、ドイツの場合は1.30歳であり、ヨーロッパ全体では0.69歳でしかない。また、マタイ(Matthew)効果(※6)もありそうだ。
ボードゲームのような頭脳を使う競技はどうだろうか。将棋や囲碁での研究はまだないが、チェスのグランドマスターの寿命についてオリンピック選手と比べた論文(※7)が最近出た。オーストラリアのメルボルン大学などの研究者によるもので、28カ国のチェスのグランドマスター1208人とオリンピックのメダリスト1万5157人を調べた結果、グランドマスターとなった30歳からの生存率は87%、60歳からの生存率は15%だった。グランドマスターの30歳からの平均余命は53.6歳(95%CI:47.7-58.5)で一般人の平均45.9歳よりもかなり長く、オリンピックのメダリストとほぼ同じ(1.14:1.09)だったという。
チェスのグランドマスターとオリンピックのメダリストがそれぞれ栄誉を獲得した後の生存率。どちらも一般人より生存率が高いことがわかる。Via:An Tran-Duy, et al., "Longevity of outstanding sporting achievers: Mind versus muscle." PLOS ONE, 2018
適度な定期的な運動習慣が健康にいい影響を与えることは知られているが、過度な激しい運動は酸化作用を更新させ、身体の組織やDNAに損傷を与えることが知られている。快復力や修復力がそれを補っていると考えられるが、トップアスリートの長寿の理由は未解明だ。
研究者は、トップアスリートの遺伝的な要因、身体的な資質、健康的な生活習慣、富と栄光、社会的な地位などが長寿に関係していると考えているが、そもそも身体が頑健でなければスポーツ選手になろうとは思わないだろう。また、トップアスリートになるためには、個人の資質や努力のほかに社会的経済的に恵まれた環境に育つことも重要だ。
イチローが来年以降も現役を続けるかどうかわからない。だが、イチローに限らず、ポジティブで肯定的な性格でなければトップアスリートになることは難しいだろう。米国での生活も長く、周囲の環境にも恵まれていると思われるイチローは、これからも長生きして野球界や後進の育成に活躍し続けるのだと思う。
※1:Masaru Teramoto, et al., "Mortality and longevity of elite athletes." Journal of Science and Medicine in Sport, Vol.13, 410-416, 2010
※2:Nuria Garatachea, et al., "Elite Athletes Live Longer Than the General Population: A Meta-Analysis." MAYO CLINIC PROCEEDINGS, Vol.89, Issue9, 1195-1200, 2014
※3:Srdjan Lemez, et al., "Do Elite Athletes Live Longer? A Systematic Review of Mortality and Longevity in Elite Athletes." Sports Medicine, Vol.1: 16, DOI 10.1186/s40798-015-0024-x, 2015
※4:Philip M. Clarke, et al., "Survival of the fittest: retrospective cohort study of the longevity of Olympic medallists in the modern era." British Journal of Sports Medicine, Vol.49, Issue13, 2015
※5:Matthew D. Rablen, et al., "Mortality and immortality: The Nobel Prize as an experiment into the effect of status upon longevity." Journal of Health Economics, Vol.27, Issue6, 1462-1471, 2008
※6:Robert K. Merton, "The Matthew Effect in Science." Science, Vol.159, Issue3810, 56-63, 1968
※7:An Tran-Duy, et al., "Longevity of outstanding sporting achievers: Mind versus muscle." PLOS ONE, doi.org/10.1371/journal.pone.0196938, 2018