「空気中に蒸発した長男...」息子を9.11で失った日本人父の苦悩【米同時多発テロから22年】
静寂な空気に包まれる中、目を閉じると両側にある噴水の水しぶきの音だけが聞こえてくる。
ニューヨークの世界貿易センタービル跡地「グラウンド・ゼロ」では、現地時間9月11日の午前8時30分から、追悼式典が開かれた。
今年も壇上では、遺族が交代で亡くなった1人ひとりの名前を読み上げた。ハイジャックされた4機の旅客機がビルに突入、倒壊、墜落した同時刻には鐘が鳴らされ、人々は黙祷を捧げる。
今年は主催者側から取材班に、鐘の時間だけはカメラのシャッターを切らないようにと注意があった。よって黙祷を遮る雑音がなく、その瞬間は神聖で清らかな噴水の音だけが耳に入ってきたのだ。筆者も全犠牲者に祈りを捧げた。
その噴水は北棟と南棟の跡地に作られた「ノースプール」「サウスプール」と呼ばれるもので、その枠に設置された慰霊碑には犠牲者全員が刻銘されている。
名前に手を当て離れようとしない人、しばらくじっとして空を見上げ祈る人、犠牲者の写真を大切そうに抱えた男性、生後間もない赤ん坊を抱っこし参列している女性などの姿があった。残された家族や友人は22年経った今も犠牲者を思い、深い悲しみの中にあることを窺い知った。
花束を持った一人の女性が名前を探し切れず彷徨っていた。この日スタッフに教えてもらった方法があるので、私はそっと声をかける。9/11メモリアル博物館のウェブサイトで検索すると、犠牲者の名がどこに刻まれているかをマップが示してくれるのだ。その方法ですぐに名前は見つかり、女性は私の腕に手を当てながらお礼を言い、花束を慰霊碑に手向けた。
遺族用の貴賓席には、日本人らしき男性が座っていた。私はチャンスを窺い、声をかけた。
住山一貞(すみやまかずさだ)さん(86歳)。テロの犠牲となった杉山陽一さんの父親だ。陽一さんは当時、世界貿易センター内の富士銀行(現・みずほ銀行)で総務の仕事をしていた。
「ちょっと一息ついていいですか。今月8日に家内と二人でニューヨーク入りしたんですが、ここに来るまでだいぶん取材があったもんで疲れてしまって…」。住山さんはそう言って、関係者が気を利かせて持って来てくれた水を口に含んだ。
一息入れ、住山さんは当時のことをこのように回想した。
「長男の陽一はサウス(南棟)で働いていました。富士銀行の大部分の方は避難したんだけど、保安や警備の責任者と支店長は、保安のために一旦避難した後、オフィスに戻ったんです。そこへ飛行機が突っ込んできたと聞いています」
陽一さんがニューヨークに赴任し、わずか1年ちょっと経った後の事件だった。「息子と最後に会ったのは...。実は事件の2ヵ月前の7月、私は妻と一緒に会いに来ているんです。息子家族はニュージャージーに住んでいて、仕事が休みの時に彼らがサウスタワーの展望台に案内してくれました」。
そして2ヵ月後の9月11日。
「私は日本にいて、テレビでテロを知りました。陽一が行方不明だと知ったのは、事件から3、4時間後、もっと後かな。とにかく夜中に東京の本社から電話があり、多くの方は1階に避難したけど、まだ来ていない方が何名かいると。その中に息子も入っていると告げられました」
筆者がアポなしで話しかけ、快く取材に対応してくれた住山さん。表情も口調もとても優しく穏やかなのがとても印象的だ。
おそらく遺族としてもっとも酷な記憶だろうと思い、最大限の気配りとして答えられる範囲でお願いしますと前置きをしつつ、陽一さんは発見されたのかを確認すると、住山さんは静かにこう言った。
「体のほんの一部ですね。ボディ自体は見つかっていない」
住山さんは事件後、何度もニューヨークを訪れた。イーストリバーの近くにある市の施設に当時、遺体が収容されていた。「陽一の遺体の一部が発見されたのは10月くらいだった。メディカル・イグザミナー(監察医)は大きなご遺体から順番にDNA鑑定をするのですが、陽一のは小さいので、DNAで身元が判明したのは翌年の3月、4月ごろでした」。
補足
倒壊現場から発見された遺体の一部(骨片など)は損傷が激しいためDNA鑑定が非常に難しく、22年経った今でもDNA鑑定が続いている。今月8日の時点で新たに2人の身元が判明したと発表があった(男性1人と女性1人)。
「22年経っても犠牲者の40%にあたる1104人とまだ照合できていない」と8日付のCNBCは報じた。
DNA鑑定のペースは年を追うごとに落ちていき、こんにち判明しているのは年に1人程度だ。別の2人の身元が判明したのは2年前、2021年のことだった。
オーサーコメント
◉ DNA鑑定が難しい理由↓
20年の節目に、現地取材で感じたこと【米同時多発テロ NY追悼式典】
アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」... NY倒壊跡地はいま
最後にテロ発生から22年が経ち、今の心情について尋ねると、このように語った。
「もう私もだいぶん年になりまして、まぁぼつぼつ会えるかなという感じもしていますけれども」
そんなこと言わないでと筆者は住山さんの背中に手を当てる。この後30秒以上の長い沈黙が続き、遠くを見ながらこう言った。
「コロナが始まるまでは毎年来ていたんですが、しばらく来れなくなりました。今回は4年ぶりに来ることができ、息子の近くに来られてよかったなと、そういう感じがしています。というのも、発見されないままの遺体の大部分はイグザミナーの方がおっしゃるには『エヴァポレート(蒸発)した』ということです。ですので、息子はニューヨークの空気の中にいると思っています」
過去記事
テロ発生後、現場に向かったヒーローたちの9.11 (救急隊員、消防士、警察官、それぞれのあの日)(2022)
「またね」が息子・父・夫との最後の言葉に ── 3家族の9月11日(2020)
(Text and photos by Kasumi Abe) 本記事の無断転載やAI学習への利用禁止