【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉時代において天気予報士の役割を果たした男たち
安貞2年(1228)7月22日。南風が吹き、時々、小雨が降った日。鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経は、翌日に、相模国の有力御家人・三浦義村の田村邸(平塚市)に赴くことを決めます。しかし、22日の天気が、晴れたり曇ったりということで、明日に雨が降らないかということを占わせるため、陰陽師・安倍泰貞が召し出されました。将軍の意向を受けて、幕府御所において、藤忠行が明日の天気のことを、陰陽師に尋ねます。すると、泰貞は「空は曇っても、雨は降らないでしょう。出掛けるには、最上の日です」と言上。陰陽師の占いの結果を受けて、おそらく、将軍・頼経は喜んだはずです。そして、翌日。天気はどうだったかと言うと、陰陽師の占いの通り、曇りでした。雨が降ったという記載は『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)にはありません。頼経は、田村に向けて、朝8時頃に出発しました。頼経は最初、輿に乗っていましたが、金洗澤(鎌倉の七里ガ浜辺り)からは、馬に乗り、移動したということです。将軍は、日傘を差していました。供として、北条一族(泰時・時房・朝時・重時・政村)や三浦泰村(義村の次男)なども加わっています。泰時や時房は、行列の最後尾でした。