【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条時政の台頭を許した、13人の合議制の有名無実化
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ついに北条時政が失脚した。その背景には13人の合議制の形骸化があったので、詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝の没後の状況
建久10年(1199)1月、源頼朝が没した。当時、頼家は18歳という青年にすぎず、頼朝のようなカリスマ性はなかったと考えられ、政治的な手腕はまったくの未知数だった。
『吾妻鏡』は頼家の性格などについて厳しく評価し、あまり良いことを書いていない。その理由は、北条氏が『吾妻鏡』の編纂に関与したからであり、のちに頼家が北条一族に殺害されたことと無縁ではない。
時政は未熟な頼家が政治の専決を行うことに不安を感じており、頼家の乳父を務めた比企能員ら比企一族がバックにいることを懸念した。このままでは、能員の専横を招きかねなかった。
そこで、時政は頼家や能員の発言権を抑えることで、頼朝の死で動揺する御家人を鎮め、幕府の信用を維持しようと考えた。こうして誕生したのが13人の合議制である。
■13人の合議制の誕生
13人の合議制は、有力な御家人13名(大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛)で構成された。
メンバーの顔触れは、京都の貴族出身者と東国の豪族がバランス良く選出されていた。時政は訴訟の際に、この13人で話し合って採決することにしたのである。
頼朝の死後、残った御家人は頼家による独裁専制を容認しなかった。頼家を鎌倉殿として戴き、訴訟を自らの手で解決しようとした。それは、御家人たちが望んだものだったが、もっぱら時政は自らが主導権を握ろうとしたと考えられる。
■まとめ
ところが、13人の面々は高齢者もおり、誕生直後には安達盛長、三浦義澄が亡くなった。また、有力御家人である足利義兼、新田義重、千葉常胤といった幕府創設以来の功臣も世を去った。
こうなると13人の合議制も力の均衡が破れて形骸化し、存在意義が薄れるようになった。やがて、幕府内で権力闘争が激しくなると、60歳を越えた長老格の時政が有利になった。
以後、時政はライバルの比企能員の討伐に成功し、頼朝の弟の阿野全成を追放するなど、幕府の有力者を次々と葬り去った。こうした時政に対して、御家人だけでなく子の政子や義時が強い警戒感を抱いたのは、当然のことだった。
時政の専横によって、幕府本来の存在意義が失われ、私物化されてしまっては元も子もなくなってしまうからである。そして、時政はついに政子・義時によって失脚させられたのである。