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あまりに気の毒だった。悲惨な最期を迎えたキリシタン大名3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
イエス・キリスト。(提供:アフロ)

 近年、キリシタン大名がブームなのか、大友宗麟を特集したテレビ番組やインターネットの記事を頻繁に見掛ける。キリシタン大名の中には、悲惨な最期を迎えた人もいるので、そのうち3人を取り上げることにしよう。

◎小西行長(1558~1600)

 行長は、隆佐の子として誕生した。父は「ジョウチン」と称されるキリシタンだったので、行長もキリスト教に入信し、「アウグスティヌス」という洗礼名を与えられた。

 その後、行長は豊臣秀吉に仕え、天正16年(1588)に肥後国宇土城主となった。文禄・慶長の役にも出陣したが、諸将との関係がこじれたのはよく知られている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、石田三成の西軍に与したが敗北。伊吹山中に潜伏していたが、竹中重門の家臣に連れられて村越直吉(徳川家康の家臣)のもとに出頭した。

 その後、行長は京都市中を引き回され、石田三成、安国寺恵瓊とともに六条河原で斬首されたのである。処刑後、首は三条大橋に晒された。

◎高山右近(1552?~1615)

 右近は、高山飛騨守の子として誕生した。父は「ダリヨ」と称されるキリシタンだったので、右近もキリスト教に入信し、「ジュスト」という洗礼名を与えられた。

 右近は織田信長に仕えたのち、豊臣秀吉に仕えた。しかし、天正15年(1587)に伴天連追放令が発せられると、キリシタンの右近は改易となった。

 以後、右近は前田利家を頼り、庇護を受けた。慶長17年(1612)に禁教令が発せられると、その2年後に右近は加賀を退去してマニラに向かった。

 右近はマニラで大いに歓迎されたが、すでに高齢であり、長い船旅が災いしたのか、慶長20年(1615)1月に病没したのである。その葬儀は、盛大に執り行われたという。

◎内藤如安(1550?~1626)

 如安は松永長頼の子として誕生し、のちに長頼が内藤家の名跡を継いだので、内藤を姓とした。如安がキリスト教に入信したのは、永禄8年(1565)頃といわれている。

 のちに如安は織田信長に仕えたが、袂を分かって足利義昭のもとに走った。義昭の没落後、如安は信仰を同じくする小西行長に仕えたのである。

 関ヶ原合戦で行長が斬首されると、如安は加賀前田家の庇護を受けることになった。禁教令が発せられると、如安は妻子を伴って、高山右近らとともにマニラに向かったのである。

 マニラでは、右近らとともに大いに歓待された。如安が亡くなったのは、寛永3年(1626)のことである。死後、マニラの聖ヴィンセント・デ・ポール・パリシュ教会に如安の記念碑が建てられた。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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