【光る君へ】藤原顕光は無能な人物であり、人々から物笑いにされていた
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長の対抗馬として藤原顕光が登場する。ところが、顕光は最終的に従一位・左大臣に叙位・任官されたが、あまりに無能だったので、人々から物笑いにされていたという。顕光がどんな人物だったのか、考えてみよう。
顕光は兼通の長男として、天慶7年(944)に誕生した。兼通は関白、太政大臣を務めた人物であるが、弟の兼家とは大変に仲が悪かった。
兼通は死の直前、見舞いに来なかった兼家を左遷し、代わりに藤原頼忠を後任の関白に指名したことで知られる。その兼家の子が道長である。
天禄3年(972)に伊尹(兼通の兄)が亡くなり、弟の兼通が関白になると、顕光も順調に昇進を重ねていった。天延2年(975)、顕光は従四位下・参議に叙位・任官され、念願の公卿入りを果たしたのである。
ところが、弟の朝光はすでに権中納言になっていたので、先を越されていたことに注意すべきだろう(その後、顕光も権中納言に昇進した)。
貞元2年(977)に兼通が病で亡くなると、先述のとおり頼忠が関白の座に就いた。寛和2年(986)、花山天皇が退位すると、一条天皇が即位した。
一条天皇は兼家の外孫だったので、頼忠は関白の座を退き、代わりに兼家が摂政を務めることになった。これにより、兼家は権力を掌中に収めたのである。
兼家が摂政の座に就くと、顕光は完全に冷や飯を食うことになった。摂政になった兼家は、ここぞとばかりに我が子の道隆らを昇進させた。
一方の顕光は昇進がピタリと止まったので、道隆ら兼家の子に次々と追い抜かれたのである。ところが、弟の朝光は道隆の酒のうえでの友達だったので、その事情もあったのか、大納言に昇進したのである。
潮目が変わったのは長徳元年(996)のことで、道隆・道兼兄弟が相次いで亡くなり、道長が内覧に任じられた。その後、顕光は右大臣に昇進したのである。
ただ、『小右記』によると、顕光は無能な人物で、有職故実や典礼に無知だったこともあり、人々から嘲笑されていたという。
三条天皇の譲位に伴う儀式が挙行された際、顕光は道長らの反対を押し切って、自ら担当することを申し出た。
しかし、顕光は儀式をうまく進行できず、大いに顰蹙を買った。その失態は数えきれないほどであり、顕光の無能ぶりは世に嘲笑されたのである(この点に関しては、異論もある)。