死期が迫った豊臣秀吉が残した、あまりに涙ぐましい遺言状の内容
大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉の最期のシーンだった。秀吉は幼い我が子の秀頼のことが心配で、その後事を託すべく遺言を残した。遺言にはいったい何が書かれていたのか、考えることにしよう。
秀吉は複数の遺言状を残していた。秀吉は死の2週間前の慶長3年(1598)8月5日、遺言として「豊臣秀吉遺言覚書」を認めている(「早稲田大学図書館所蔵文書」)。この遺言には、秀吉没後の政権構想が次のとおり書き残された。
①徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家は、秀吉の遺言を守り、互いに婚姻関係を結ぶことで紐帯を強めること。
②家康は3年間在京し、所用のある時は秀忠を京都に呼ぶこと。
③家康を伏見城の留守居の責任者とし、五奉行のうち前田玄以・長束正家を筆頭に、もう1人を伏見に置くこと。
④五奉行の残り2人は、大坂城の留守居を勤めること。
⑤秀頼が大坂城入城後は、武家衆の妻子も大坂に移ること。
秀吉の遺言で重要なのは、五大老のメンバーを確定したことである。次に重要なのは、家康を伏見城に置き、関東に下向させないことにより、その動きを封じようとしたことだ。前田玄以と長束正家は、家康の監視役と考えてよいであろう。
秀忠が家康の名代とされ、家康の不在時には上洛を命じられた。秀吉はその死に際しても、徳川家がもっとも頼りになると考えていたようである。
ほぼ同じ頃、別に秀吉が残した遺言の覚書も残っている(「浅野家文書」)。この覚書における、宇喜多秀家への記述は注目される。秀吉は秀家を幼少時から取り立てたので、秀頼を守り立てるよう強く要望したのである。
というのも、秀家の妻は秀吉の養女・豪姫(前田利家の娘)だったので、親族の1人としてみなされていた。秀家は秀吉の親族だったがゆえに、大出世したといえよう。
秀吉がさらに五大老の面々に対して、秀頼を支えるように遺言状を残したことはあまりに有名である(「毛利家文書」)。秀吉は五大老に対し、秀頼が一人前に成長するまで、しっかり支えて欲しいと懇願し、これ以外に思い残すことはないとまで書き記した。
さらに、追而書(追伸)の部分では、「配下の五奉行(浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家)たちにも、同じことを申し付けてある」とまで述べている。
ここまで秀吉がしつこかったのは、自身の死後に豊臣家が滅亡するのではないかという危機意識があったからだろう。秀頼を支えてほしいと懇願する秀吉の姿には、涙ぐましさを感じる。
しかし、秀吉の期待は裏切られ、2年後には関ヶ原合戦が勃発した。そして、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣で、秀頼は秀吉がもっとも頼りにした家康によって滅ぼされたのである。