【深掘り「鎌倉殿の13人」】夫の北条時政も舌を巻いた。牧の方の恐るべき悪妻ぶり
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧の方がときおり夫の北条時政をけしかけるシーンがあった。牧の方はどんな女性だったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■牧の方の来歴
牧の方は生没年不詳。北条時政の後妻である。父は牧宗親といい、駿河国大岡牧(静岡県沼津市)を知行していた。最初、時政は伊東祐親の娘を妻として迎えていたが、牧の方は後妻として収まったのである。
しかし、先妻の子だった北条政子や義時は、牧の方との関係が良くなかったという。寿永元年(1182)11月、牧の方は頼家を生んだばかりの政子に対して、政子の夫・源頼朝が愛人の亀の前とただならぬ関係にあることを伝えた。
この話を聞いた政子は激怒し、牧宗親(牧の方の父)に亀の前の住む屋敷(伏見広綱の邸宅)を破却するよう命じた。その結果、亀の前は大多和義久邸へ逃げこんだのだ。
この話を聞いた頼朝は怒り狂い、宗親を呼び出すと、その髻を切ったのである。頼朝が妻の父である宗親に恥辱を与えたので、時政は兵を伊豆に引き上げた。むろん、牧の方も憤慨していたに違いない。
■時政の台頭
建仁3年(1203)に比企の乱が勃発すると、時政は比企能員ら比企一族の討滅に成功した。同時に、頼朝の子・頼家を伊豆の修禅寺に幽閉し(のちに殺害)、頼家の弟・実朝を新将軍の座に就けることに成功した。
それだけではない。時政は大江広元ともに政所別当に就任し、実朝を後見するだけでなく、幕府内で大きな発言権を持つようになった。
また娘婿の平賀朝雅が京都守護として赴任すると、朝雅の代わりに武蔵支配に携わることになった。これにより時政は、絶大な権力を誇るようになったのだ。
時政の大出世は、牧の方にとってもうれしい出来事だった。牧の方も大きな影響を保持したことは、想像に難くない。
■まとめ
ところが、元久元年(1204)11月、突如として時政と牧の方の子の政範が急死した。政範の死は、2人に暗い影を落とした。
すでに、時政は60代の半ばを過ぎていたが、牧の方にけしかけられ、畠山重忠を討つなど、晩節を汚すことになったのである。