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【光る君へ】流罪が決まった藤原伊周は、重病と称して時間稼ぎをした

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 宜秋門。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周・隆家の従者が花山法皇に矢を射たので、2人には流罪という厳しい処罰を科されていた。しかし、伊周は流罪が決定しても、重病と称して時間稼ぎをしたので、その辺りを取り上げることにしよう。

 長徳2年(996)1月、藤原伊周・隆家兄弟が花山法皇を待ち伏せしたとき、従者が矢を放って花山法皇の衣の袖を射抜いた。これが、ことの発端である。

 実は、問題はこの一件だけでなく、藤原詮子を呪詛した嫌疑、法琳寺と宮中でしか許可されていない「太元帥法」を無断で行ったこと、が発覚した。おまけに、伊周は多数の兵を抱えており、そうしたことも問題視されたのである。

 伊周・隆家兄弟の事件を担当したのは、検非違使の別当(長官)を務めていた藤原実資である。実資から事件の全貌を知らされた一条天皇は、断固たる態度で臨むことになった。

 一条天皇は伊周を大宰権帥、隆家を出雲権守に降格させたうえで、流罪にするという厳しい処分を科したのである。公家間での喧嘩は珍しくなかったが、今回の一件は国家を揺るがす大問題だったので、見過ごすことができなかったのである。

 一条天皇は、伊周・隆家兄弟が住む二条北宮に勅使を派遣し、2人の流罪が決定したことを伝えた。歴史物語の『栄花物語』によると、勅使が訪れて詔を読み上げると、皆が涙を流したという。

 検非違使は邸宅を包囲していたが、やはり同情して涙を流したと書かれている。いかに伊周・隆家兄弟が悪いとはいえ、流罪という重罪はあまりに忍びなかったのだろう。

 『小右記』によると、伊周は流罪が決定した日、重病と称して時間稼ぎを行ったという。しかし、一条天皇は断固たる態度で、これを決して許さなかった。

 やがて、伊周が捕縛されるとの噂が伝わると、人や車で二条大路は大混雑になったという。やじ馬たちは、伊周が逮捕される決定的な瞬間を見ようとして、方々から集まって来たのである。

 同年5月、伊周は突如として姿をくらました。驚いた一条天皇は、徹底的に調べるよう命じた。伊周は、愛宕山中に逃亡したとか、宇治木幡で父の道隆に懺悔していたとも伝わる。しかし、ほどなくして伊周は捕縛された。そのとき、伊周は頭を丸めていたが、それは偽りの出家だったといわれている。

 その後、捕らえられた伊周は、大勢の見物人が集まる中で、大宰府に送られたのである。伊周・隆家兄弟は大いに落胆したかもしれないが、それは妹の定子も同じだった。その点は、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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