Yahoo!ニュース

平治の乱で源義朝を打ち破り、我が世の春を迎えた平清盛の行動力

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」は、藤原氏が摂関政治で我が世の春を謳歌した時代が舞台である。その後、武家が台頭し、平治の乱後は平清盛が武家政権を築き上げた。その経緯について、詳しく確認しよう。

 平治の乱で、源義朝と藤原信頼はクーデターに成功した。平治元年(1159)12月14日、事実上政権の主宰者となった信頼は、臨時除目を行うと、義朝を播磨守に、子の頼朝を右兵衛権佐にそれぞれ任官した。

 この人事に対して、多くの公家が良からぬ感情を抱いた。一方、東国から上洛した義平(義朝の子)は、平清盛を討つように進言したが、それは信頼によって却下された。

 一方の清盛は、信頼らのクーデターを紀伊国で知ると、湯浅宗重ら紀伊の武士らの助力を得て、12月17日に帰洛した。その間、伊賀や伊勢の武士らが清盛の軍勢に合流し、十分な戦力を確保していた。

 信頼はことを有利に運んでいたが、やがて苦境に陥る。そもそも義朝が率いる軍勢は、クーデターを実行するだけの少人数に止まっていた。また、皮肉なことに信西を討ったことによって、味方だった二条親政派は信頼を必要としなくなった。かえって信頼の専横ぶりが、非難されたのである。

 12月25日、後白河上皇が仁和寺に脱出すると、翌26日には二条天皇が六波羅にある清盛の邸宅に脱出した。その後、清盛は信頼、義朝を追討せよとの宣旨を賜った。こうして両者は、戦いに臨んだのである。

 義朝の率いる軍勢は、子の義平・朝長・頼朝ら一族を中心とし、関東からの武士の援軍などで構成されていた。清盛の作戦は内裏での戦いを避け、六波羅に義朝らをおびき寄せ、一気に叩くものだった。

 戦いは清盛の目論見通り進み、六条河原の戦いで義朝の軍勢に勝利した。義朝の敗因の一つには、一族の源頼政の協力が得られなかったからだといわれている。

 戦いの結果、捕らえられた信頼は処刑となった。義朝は東国へ落ち延びる途中、尾張で長田忠致に殺された。子の義平も捕縛されて処刑されたが、頼朝だけは死を免れた(伊豆に配流)。

 12月29日に除目が行われると、平家一門は手厚く恩賞を授けられた。平治の乱は、平氏政権成立の礎になったのである。まさしく平氏の世のはじまりだった。

 武家の棟梁となった清盛は、国家権力の一端を担うことになった。仁安2年(1167)、清盛は武家として初の従一位・太政大臣に叙位任官された。これにより、清盛は公家社会でも枢要な地位を獲得したのである。

 清盛が重視したのは、天皇家と婚姻関係を結び、勢力をさらに伸長することだった。清盛の妻・時子の妹・滋子は、後白河上皇の間に高倉天皇を産んだ。清盛の娘・徳子は、高倉天皇の間に安徳天皇を産んだ。

 こうして清盛は天皇の外祖父になり、平氏政権の盤石な体制を築いたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事