樋口尚文の千夜千本 第201夜 『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン監督)
フリードキンの極端さと気まぐれ
1935年生まれのウィリアム・フリードキンが88歳の誕生日を目前にして逝った。フリードキンの両親は、なんと帝政ロシアによる弾圧を逃れてウクライナからアメリカに渡ったユダヤ系移民なのだった。フリードキンが若くしてテレビ業界に潜り込んでドキュメンタリーのディレクターとして叩き上げたことはつとに知られている。1967年からはハリウッドで劇映画を撮り出したが、一躍彼を有名にしたのは、70年のオフ・ブロードウェイの話題作『真夜中のパーティ』(原作者は舞台版の演出家の起用を望んだが映画の経験がなかったので製作会社がフリードキンを選んだ)の映画化であり、さらに翌71年、国際的な麻薬取引ルートの捜査を題材にしたサスペンス『フレンチ・コネクション』ではアカデミー賞の作品賞、監督賞ほかを総なめにした。
当時のフリードキンの武器は、何より尖鋭でリアルな映像のタッチであった。それがゲイ・カルチャーやドラッグ・ビジネスなど同時代の新鮮な題材と絶好の出合いを果たし、素材も引き立った上にフリードキンの資質も最大限にいきのいいかたちで映像に結実した。これらの題材が、旧套のスタジオ作法で嘘くさく、お芝居っぽく撮られていたら、当時の若い観客は一斉にそっぽを向いたと思うが、フリードキンの低温で臨場感に満ちた映像と音で料理されるや、喝采とともに歓迎された。こうしたタッチはテレビドキュメンタリーの現場で会得されたものかもしれないが、自身がしばしばゴダール『勝手にしやがれ』やコスタ=ガヴラス『Z』からの影響を語るように(ちなみにコスタ=ガヴラスはギリシャ人だがジャック・ベッケルやジャック・ドゥミの助監督だった)、フリードキン流のリアリズムは、はるかヌーヴェル・ヴァーグの衝撃がアメリカン・ニューシネマの世代の「語り口」として通俗化した代表的なモデルケースであり、しかもフリードキン流は実にスマートにこなれたものだった(映像そのものに限らずその音響や編集のセンスも含めて)。
そして、そんな素材も手法も「時の人」フリードキンが次に召喚された企画がオカルティズムをめぐるものであったというのも、出来過ぎなくらい「旬な」インパクトがあった。フリードキンは後年、『エクソシスト』が当時のアメリカに蔓延する社会不安、宗教不安などを映した企画だというのはこじつけで、たまたまの偶然であの時期に降ってきた仕事に過ぎないという趣旨の発言をしていた記憶があるが、ベトナム戦争は行き詰まり、マンソン・ファミリーの猟奇殺人事件に次いでウォーターゲート事件が起こっているような不安の季節に『エクソシスト』が創られ、公開されたということには、もはやある必然を感じずにはいられない。劇中の悪魔パズズが人心の孤独や不安に乗じて巣食うように、この映画も心もとない時代の観客にぐいぐい食い込んできたのだった。
1974年の日本公開の頃、「エクソシスト」という耳慣れない言葉を補足して、よく「悪魔祓い師」という訳が併記されていたが、この古色蒼然とした訳がいよいよアメリカン・ニューシネマの最もモダンな旗手フリードキンとのミスマッチを際立たせて期待を煽った。「悪魔祓い師」だなんてハマー・フィルムのクラシック・スタイルの怪奇映画じみた前時代的な素材をフリードキンはいったいどう取り扱うのか。73年のアメリカ公開時の熱狂が前評判となって、翌年夏の日本公開時も大変な盛り上がりであったが、私も超満員の旗艦ロードショー館ですぐに観て、とにかくフリードキンの映像・音響センスと物語処理のクールさに唸った。息をひそめて画面に見入る周りの観客の緊張感、満足感もひしひしと伝わってきた。同い年の岩井俊二監督は『エクソシスト』を自分に深甚な影響を与えたバイブルだと言っていたが、私にとっても青春時代の大事な一本だ。
さて、フリードキンが鬼籍に入った今年は奇しくも米本国での『エクソシスト』公開50周年でもあるのだが、訃報の前から偶然にも2000年公開の『エクソシスト ディレクターズ・カット』リバイバルが予定されていて、久々にスクリーンで本作をじっくり眺めてきた。タイムラインには「せっかく再映するならディレクターズ・カットではなく73年のオリジナル版ではないのか」という声も目立った。その説には私も少なからず賛成だったのだが、しかしここで注記しておきたいのは、今回再映されたディレクターズ・カットはもちろん監督の再編集を経たものだからそう呼ばれて然るべきものではあれど、その再編集箇所は原作者でありプロデューサーでもあったウィリアム・ピーター・ブラッティの積年の要望を汲んだものが大部分を占めていたということだ。すなわちこれはディレクターズ・カットというよりオーサーズ・カットと言うべきバージョンなのだ。
2005年に日本でも刊行されたマーク・カーモード著『バトル・オブ・エクソシスト』(河出書房新社)は、初公開時に本作の主に編集をめぐってフリードキンとブラッティが真っ向から衝突していた消息と、四半世紀を経てブラッティの意向をそっくり採用したディレクターズ・カットが生まれた経緯を実に細かく記した労作であった。このたびの再見にあわせてこちらの研究書も久々に再読したが、映画作品の生成過程の葛藤を浮き彫りにして余りにも興味深い。1973年版では尖りまくって戦闘的だった「時の人」フリードキンは、全てを映像に託し、ブラッティの含むところを言わず語らずして観客に伝えるべく、とにかく通り一遍のドラマ展開の部分は全部ぶった切った。前半のクリスの映画撮影シーンにプロデューサー役でゲスト出演しているブラッティが、監督に「こんなシーン必要なのか?」と問うシーンがあるが、現実では逆にブラッティが監督のフリードキンからずっとそう言われ続ける修羅場が待っていた。
フリードキンがブラッティの意向を頑なに却下しまくった結果として、たとえば変調を来たす直前のリーガンと母クリスがワシントン観光をする和やかな場面(これはスチールではよく見かけるのだが)、強烈な悪魔との攻防を経てかなり疲労気味なメリン神父とカラス神父が「なぜリーガンが選ばれたのか」という悪魔の意図について語る場面、結末部でキンダーマン刑事がダイアー神父を映画に誘う場面などが主なカット部分であった。リーガンの病院検査も相当念入りに描かれているので、あまりに検査シーンが多いということで最初のほうは省かれた。
要はいくらかでも説明的な部分やドラマとしてありがちな部分、くどい部分をフリードキンは極端に切って、あの映像も編集もクールな初公開版が生み出されたわけだが、そのフリードキンの潔癖さゆえに、人物のリアクションが真反対になっている箇所さえある。その最たるものが、初公開版のラストで邸を去るクリスが車中から、カラス神父の形見である聖ヨゼフのメダルを盟友ダイアー神父に託すというくだり。これがなんとディレクターズ・カットではいったん預かったダイアーが「あなたが持つべき」とクリスに返すのだった。前掲書の著者も言うように、これはクリスの信仰の芽生えをほのめかす場面とも言えるので、ぜひ残すべき展開だったと思うのだが、とにかく上映時間を縮めることに執念を燃やしたフリードキンは、こんな箇所までお構いなしに切ってしまった。
しかし、25年を経たフリードキンは、こうしてほとんど全部葬ったブラッティご執心の部分を「全部復活させる」という意外なるディレクターズ・カット(実質オーサーズ・カット)を生み出す。フィルムが生き残っていても音素材が劣化して「復活」を諦めた箇所もあったというが、相当な数の削除部分が戻った。これにより私がかねて観たかった(原作でも印象的な)ラストの刑事と神父の映画話が付加され、一方では私としては全く不要な「スパイダーウォーク」までもが採用された。いったい全体、初公開時の非情なカット方針はどこへ行ったのかと首を傾げざるを得ないが、とにかくフリードキンは「極端」で、時として気まぐれな性質の作家ということだろう。「極端」なる足し算方向に舵をきったフリードキンは、ところどころにサブリミナル的な凶兆を埋め込んだり、リーガンの口元をより凶悪にモーフィングさせたり、リーガンが父に怒るクリスの電話を陰で聴いているシーンを筆頭に不穏で説明的な音楽を付加したり、随所であらずもがなの「足し算」に凝ってもともとのよさをだいなしにしている。
ともあれ作品全体を貫くモダンでクールな視座は、公開半世紀を経ても全く褪色していないので恐れ入るのだが、このように初公開版とディレクターズ・カットを比べると、フリードキンの荒唐無稽な変節、恣意的な「極端」さがあまりに興味深い(そしてそれに数十年も翻弄され続けるブラッティ……)。そんなディレクターズ・カットには賛否が渦巻いたけれども、最たるサービス・カットはラストの去ってゆく車中からリーガンが観客に明るく手を振ってくれたところだろう。初公開版では、なんとリーガンはこちらを振り向いてさえくれなかったのだから。