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里山の人工林に注目してみよう

田中淳夫森林ジャーナリスト
里山にも意外とスギやヒノキの人工林は多い。

私は、地元の生駒山をよく散策する。ときに遊歩道ではない林内を歩く。そして植生を観察すると、意外なほどスギやヒノキの人工林が多いことに気がついた。

おそらく里山の面積の2割は越えているのではないか。ほかの里山もそんなに大きな違いはないと思う。

一般に里山林と言えば、そこにある森林とは雑木林を連想するだろう。雑木とは、主にコナラ、クヌギなど落葉広葉樹だが、なかにはマツなどの針葉樹、さらに最近は照葉樹が増えつつある。

しかし、実際の森には明らかに人が植えたスギやヒノキも結構な面積を占めているのだ。おそらく戦後の材価が高騰した際に起きた造林ブームで植えられたものだろう。

当時は燃料革命や化学肥料の導入などで、燃料としての薪の採取や農地に入れる堆肥づくりの材料となる落葉落枝の採取などが求められなくなった。本来の里山林の役割を失いつつあったのである。

そこで木材生産に切り替える動きが強まっていた。政府も拡大造林政策(低質林=利用価値の低くなった森林を、有用な樹種=木材の取れる針葉樹に植え替える施策)を推進していた。

だが、その後の林業の衰退で材価も落ちて、森林所有者は林業経営を行う意欲を失った。そのため十分な手入れが行われているスギ・ヒノキ林は少ない。

こうして放棄された人工林は始末に終えない。明るい落葉広葉樹の雑木林が放置されることで暗い照葉樹林に変わることが問題視されているが、照葉樹が育っているならまだしも、貧相な立ち枯れしかけたスギやヒノキ林では、水源涵養、土壌流出防止、生物多様性……など環境機能も劣るだろう。より問題を抱えているのは、里山の人工林かもしれない。

しかし、見方を変えてみよう。今でこそ林業と言えば里から離れた奥山で行うものという意識が強いが、昔からそうであっただろうか。

住居から離れた土地に木を植えて育てると、単に通うのが遠いだけでなく木材の収穫する際も、運び出しに難儀する。道路はほとんど入っていず、また動力機関もない時代ならなおさらである。やはり歩いて通える範囲で行う方が有利だ。

当然、里に近いところで行うことが多かったのだろう。むしろ通いやすい山、運びやすい平坦な場所が林業地に選ばれたに違いない。

つまり、林業の多くは里山で行われたのだ。何も好き好んで、山奥で行うものではない。近ければ、世話をすることも容易になり、ていねいな作業でより高品質な木材を生産することもできる。

そのように発想を転換すると、里山こそ林業適地になるのではないか。

急峻な奥山では、仮に林道・作業道を入れても到達するには長時間かかる。しかし里山なら都会にも近く、すでに多くの道が入っている。地形も比較的平坦で作業もしやすい。小面積の林地でていねいに植えた木の世話を見て、高品質材を生産する林業も可能だろう。いや、量を追求する大規模林業地よりも、これからは小規模ながら高く売れる木材生産を指向する方がビジネスとして面白みがあるのではないか。

莫大な補助金を投入して山肌を削って林道や作業道を通し、高価な業機械を導入して林業を振興するよりも、里山の小ビジネスとして林業を推進した方が、消費者好みの商品を生み出せるように思えるのである。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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