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【戦国こぼれ話】古河公方の内紛時に起こった「宇都宮錯乱」とは、いかなる争いなのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
宇都宮城址公園。宇都宮市の栄耀栄華をしのぶことができる。(写真:Tonic_M/イメージマート)

 宇都宮といえば餃子が有名であるが、同地に本拠を定めた宇都宮氏も非常に有名である。古河公方に内乱が起こった際、「宇都宮錯乱」という紛争が生じた。それは、いかなる争いなのだろうか。

■古河公方の内紛

 享徳4年(1455)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代の古河公方(茨城県古河市)となった。明応6年(1497)に成氏が亡くなると、子の政氏が跡を継いだ。しかし、その後の政治路線をめぐって、古河公方に内紛が生じた。

 古河公方の政氏が山内上杉家と結ぼうとしたのに対し、嫡男の高基が応じないという状況が起こった。そして、永正3年(1506)以降、政氏と高基は不和になり、対立を避けることができなくなった。そのうえ、政氏は次男の義明とも対立し、義明は小弓公方として独立したのである。

■「宇都宮錯乱」の勃発

 ほぼ同時期に勃発したのが、「宇都宮錯乱」という事件である。宇都宮氏の家臣の中で大きな力を持っていたのは、益子氏と芳賀氏であった。

 中でも芳賀氏の場合は、鎌倉末期以降から宇都宮氏から養子を迎え入れ、一門としての地位を得ていた。これにより芳賀氏は、主家の宇都宮氏を凌駕する力を持ったのである。

 15世紀の半ば以降、芳賀氏の地位は主家を脅かすまでに高くなった。特に、芳賀景高・高勝父子は、無視できない脅威に成長していたのである。当時の宇都宮氏の当主だった成綱は、2人を恐れていた。

■芳賀高勝の自害

 永正9年(1512)、意を決した成綱は芳賀高勝を自害に追い込んだ。この一事によって、芳賀氏と宇都宮氏との間で抗争が巻き起こり、これが「宇都宮錯乱」と称されたのである。宇都宮家中を巻き込んだ一大争乱であった。

 ところで、「宇都宮錯乱」には、古河公方における内部対立(政氏と高基との抗争)が深く影響していたといわれている。

 成綱は娘を高基のもとに嫁がせており、いうなれば高基派であった。永正3年(1506)に高基が父・政氏と対立すると、成綱はこれを迎え入れた。一方の芳賀氏は、政氏に与していたと考えられている。

■収束した「宇都宮錯乱」

 永正11年(1514)頃まで「宇都宮錯乱」は続いた。芳賀氏(政氏派)は、成綱(高基派)に敗北して、ようやく事態は収束したのである。

 のちに、成綱は家督を忠綱へと譲り渡した。そして、成綱の弟・興綱を芳賀氏に送り込んで、芳賀氏を再び家臣にして再編成しようとしたのである。

 ところが、肝心の興綱が忠綱を攻撃し、追放した上で宇都宮氏の家督を奪取した。こうして争いは、また新たに始まったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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