江戸時代の京都で発展した、和菓子の歴史
お菓子が好きな人は老若男女問わず多いです。
その中でも和菓子はユニークな歴史をたどっていき、江戸時代にその花が開きました。
この記事では京菓子の歴史について紹介していきます。
京菓子の誕生
江戸時代には、和菓子はさまざまな系統を持ち、特に京都で独自の発展を遂げました。
その背景には、宮中や大名家への献上菓子としての需要があったのです。
1635年の『虎屋御用記録』には、多種多様な和菓子が並べられており、薄皮饅頭や羊羹、落雁、カステラ、金平糖といった馴染み深い菓子だけでなく、南蛮菓子や高麗煎餅などの異国情緒を感じさせる菓子も含まれています。
これらの菓子は、各地に伝わり、和菓子文化の一端を担っていました。
17世紀初頭の京都では、和菓子はさらに多様化し、地域ごとの特色が顕著になっていきました。
『毛吹草』(1645年)や『雍州府志』(1684年)といった記録には、冷泉通の南蛮菓子、六条の煎餅、七条の編笠団子など、地域ごとの名物菓子が記されています。
これらの菓子は茶の湯の文化や、洛中・洛外に広がる寺社との関係性を反映したものでした。
洛外では、愛宕山の粽、北野天満宮の粟餅、清水寺の炙り餅など、寺社の門前町を中心に発展した菓子が多く見られます。
洛中型の和菓子は、茶の湯と深く結びついています。
特に干菓子は、茶席で重要な役割を果たし、その中には工芸菓子と呼ばれる食べるためではない飾り菓子も含まれていました。
これらの和菓子は、五感で楽しむものであり、味覚や視覚だけでなく、聴覚で楽しむという独特の文化があったのです。
例えば、菓子の名前や意匠には、『古今和歌集』や『源氏物語』などの古典文学や自然を取り入れたものが多く見られます。
「薄氷」や「若紫」といった菓子は、その名が示す情景を見事に表現しており、視覚的にも味覚的にも楽しめるものとして仕立てられているのです。
和菓子の意匠や名称が文化的に洗練される中、17世紀後期の元禄期には、菓子の見本帳や菓子絵図帳が登場します。
虎屋のような老舗は、これらの見本帳を顧客に届け、注文を受けて菓子を製造していました。
こうした記録は、単なる販売の道具としてだけでなく、文化的な交流の場でもあり、和菓子の意匠を通じて王朝趣味を共有する手段となったのです。
特に茶の湯において、和菓子はその季節感が重要視されており、四季折々の菓子が茶席に彩りを添えていました。
熊倉功夫によれば、和菓子と季節感との結びつきが強まるのは、江戸後期に俳諧趣味が流行したことが一因とされています。
俳諧では季節感が重視され、和菓子にもその影響が現れたのです。
しかし、田中仙堂によれば、茶の湯における季節感の強調は近代以降の現象ともされており、和菓子と季節感の関係は時代とともに変化してきたと考えられます。
また、和菓子は信仰や行事とも深く結びついています。
五節句や寺社の行事には欠かせない存在であり、日常生活にも和菓子が浸透していきました。
このように、和菓子は単なる食べ物にとどまらず、文化的、宗教的な意味を持つものとして成り立っています。
17世紀後期に成立した京菓子は、全国へと広がりを見せます。
江戸時代には、江戸にも京菓子を扱う「下り菓子屋」が進出し、その名を広めました。
特に参勤交代が京菓子の全国展開に大きく貢献し、大名家や町民に京菓子が浸透していったのです。
京都では「上菓子屋仲間」という菓子職人のギルドも形成され、和菓子の品質を守りつつ、砂糖の使用権を独占することで、その地位を確立しました。
煉羊羹の普及も和菓子文化の発展に大きな役割を果たしました。
蒸羊羹から進化した煉羊羹は、18世紀末頃から江戸で誕生し、寒天を使った製法が考案されたのです。
寒天の創製には様々な伝説がありますが、伏見で発展したことは確かであり、これが京坂地方の和菓子作りに大きな影響を与えました。
さらに、18世紀から19世紀にかけて、菓子製法書が出版され、和菓子の普及に大きく寄与しました。
代表的な書籍としては、『御前菓子秘伝抄』や『菓子話船橋』があり、これらの書籍を通じて、菓子作りの技術や知識が広まっていったのです。
こうした出版物の影響もあり、和菓子はますます多様化し、江戸時代末期には500軒以上の菓子屋が京都に存在するほどの盛況を迎えました。
和菓子は単なる食べ物ではなく、文化や季節感、宗教との結びつきを持つ、深い意味を持った存在です。
江戸時代に京都で発展した京菓子は、その多様性と美しさで全国に広がり、現代の和菓子文化の基盤を築いてきました。
参考文献
並松信久(2021)「和菓子の変遷と菓子屋の展開」京都産業大学『日本文化研究所紀要』第26号