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東京都が「アートにエールを」募集要項を公開――フェアな支援、必要な支援とは

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
支援には個人でも10人までのグループでも応募できる。(写真:アフロ)

自治体独自の支援策が次々に

今、さまざまな自治体が独自の文化芸術支援策を打ち出している。

たとえば京都市の支援策については以下の記事が詳しく解説している。

「文化芸術は京都のアイデンティティ」。京都市が文化芸術活動緊急奨励金を創設した理由(美術手帖2020-0429)

この記事および京都市の公式サイトの該当ページによれば、京都市は「文化芸術活動緊急奨励金」を創設し、 補正予算のうち5000万円を充てるという。京都市に居住または活動拠点を置く個人・グループを対象に、150〜200件程度を審査のうえ採用し、1件につき30万円を上限として奨励金を出すことになっている。

また、長野県も補正予算で1230万円の予算を計上し、支援策を打ち出した。

長野県、補正予算でアーティスト支援に1230万円を計上(美術手帖2020-0429)

4月23日には、北海道知事が、道内のライブ・エンタテイメント事業者に一律25万円を支給すると発表している。

ライブハウスなどに一律25万円 北海道が独自の支援金(朝日新聞 2020/04/24)

それぞれの支援策が、どういう原理に基づいて誰を支援するのかについては、それぞれの自治体が出した支援策ごとに見ていく必要がある。

(1)自治体が推進・支援したい文化事業を助成するという、平時の一般的な「助成」や「奨励」の考え方をベースにしているのか、(2)休業による損失への補填をベースにしているのか、(3)損失を被った中でもとくに困窮する層への保護を主眼としているのか。

この考え方の違いによって、支援対象や選別(審査)の観点は異なってくる。現在の新型コロナウイルス感染拡大防止策の中での「支援」ないし「奨励」は、大筋としては(2)と(3)の発想によるべきものであることは、事柄の道理として理解できるだろう。この「道理」のことを、本稿では「フェアネス(公正さ)」として考えたい。

東京都の支援策は、感染拡大防止策をもっとも真剣にとらなければならない自治体のケースであることから、他の自治体のモデルケースともなりうるし、失敗した点があれば学習材料ともなるだろう。その意味で、本稿でも引き続き、東京都の支援策をモデルケースとして取り上げてみたい。

東京都の「アートにエールを」募集要項が公開される

東京都が4月28日、 「芸術文化活動支援事業 『アートにエールを !東京プロジェクト』募集要項」を公式サイトに公表した。

「「アートにエールを!東京プロジェクト」(東京都生活文化局公式サイト 更新日:令和2年(2020)4月28日)

東京都生活文化局公式サイト4月28日閲覧
東京都生活文化局公式サイト4月28日閲覧

募集要項・応募規約

募集要項に記載された支援の「目的」は、「文化の灯を絶やさないため」、「アーティスト等の活動を支援する」とともに、「在宅でも都民が芸術文化に触れられる機会を提供します」となっている。その「概要」は、「プロとして芸術文化活動に携わるアーティストやスタッフなどから、Web上で配信する動画作品を募集」するというもので、作品は「専用サイトで配信するとともに、制作されたアーティストやスタッフ等に出演料相当を支払うという。額は「一人当たり10万円」、一作品に参加する人数の上限は10人、したがって一作品あたりの上限は100万円となる。

対象者は、「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に伴い、活動を自粛せざるを得ないプロのアーティスト、クリエイター、スタッフ等」である。

この支援プロジェクトの骨子をどう見るかについては、これに関する記者会見が行われたときに、記事を一本投稿した。

東京都のアーティスト支援プロジェクト ――そのエールは誰にどこまで届くか

しかし、この段階では、審査方法については言及がなかった。

採用は全体で4000人程度というが、1作品に10名まで参加できるので、採用される作品数はこれより少なく、400件から4000件の間の数になることになる。応募数が少なく、応募者数が上限に満たない場合には、後に見る「対象外」に該当する人・作品を除いて全員採用となると思われるが、応募数が上限を超えれば、「審査」による選別が行われる。

その選別をどのような審査方法で行うのか、どのような審査基準で対象作品を選ぶのか、というところが、応募を考えている当事者にとっては一番気になるところだろう。その部分が、会見発表から4日遅れて、サイト上の「募集要項」の中で公表されたので、今回はこの募集要項について見ていこうと思う。本稿ではまずは基本の考え方と視点、次の稿で募集要項の中身にそくした考察をしていきたい。

ちなみに、サイト上の募集要項のページには、参考作品としての動画も数本、公開されている。

(「カノン」メインビジュアル アーティスト:荻野夕奈 YouTube東京都公式サイトTOKYO および東京都生活文化局公式サイトより)

「セット」というスローガンが訴える「フェアネス(公正さ)」

こうした支援に予算の上限や募集数の上限が設けられ、選別と審査が行われることについては、法的な問題はない。憲法21条「表現の自由」の通常の場面は、一般人が(自費で)行う表現に「公」が介入してはいけないというものだが、これとは異なり「公」が支援するという場合には、その規模や審査方法については基本的に支援する側(国や自治体)の裁量に任される。

筆者は東京都が支援策を打ち出したこと自体の意義は肯定的に評価すべきだと思っている。文化芸術の分野に、今、なんらかの支援策が必要であるということについては、上に紹介した拙稿でも指摘した。この支援によって多少なりともメリットがあると思う該当者は、実費込みで一人当たり10万円という条件を理解した上で、ぜひ利用したらいいと思う。

。さらに、何人かが集まることで実費を合理化・効率化したり、別ジャンルの技術を持ち寄ることでメリットを生み出す動きをアーティスト自身が生み出して、一人当たりの支援額の少なさを補うことができるなら、さらに良いと思っている。

しかし同時に、私たちは、「恩恵を受けるからには(足りないところやズレているところがあっても)批判すべきではない」という思考に陥ってはならない。政府や自治体の限りある財源と、限りある人的・知的資源を、的外れなことに空費せず、必要なことのために使ってもらうためには、一般市民の生きた声が欠かせない。そのために私たちは、「その支援はフェアか、必要か」と問う批判精神を手放してはならない。その一般論は以下の投稿で論じたが、このことは、自治体が行うアーティスト支援と、当事者として支援を受けるアーティストの関係についても当てはまる。

コロナの時代の「言論の自由」―― 「緊急」の中でこそ「批判の自由」が大切な理由

こうした公的支援の場面では、法(憲法や法律や条例)は、どの作品が選ばれるべきかについて――作品の芸術的価値の判断について――言えることはないし、そこに立ち入るべきではない。法は、それとは別の観点から、コンプライアンス事項として審査を外から枠づけすることになる。他者の権利を害したり他者への誹謗中傷となるような表現は支援対象とならない、といった事項である。東京都の募集要項および応募規約にもそうした内容がある。

しかし、作品がどういう基準で誰によってどういう手順で選ばれるかについては、国や自治体の判断に任される。その政策の有効性や賢愚については、法(裁判所)ではなく、国民や住民が有権者の立場で評価することになる。だからこそ、よりよい政策を採用してほしいという要望があるときには、その声を政策担当者に届かせることは必要になる。

その審査の仕組みや選考のさいの視点が、あまりにも芸術への理解を欠くものであった場合には、芸術家のほうが参加しない、降りる、ということも起きる。これもまた作家の側の「表現の自由」に属することなので、法の領域から何かを言うことではないのだが、芸術祭など、「芸術」「アート」を掲げて支援をしようとする自治体は、その言葉を使うからにはそれなりの心づもりをした上で支援に乗り出すべきである。その点では、今月に中止が発表された「「ひろしまトリエンナーレ2020 in Bingo」が、学ぶべき失敗例と言える。

普通ならば、法学の領域から言えることはここで終了となりそうである。しかし、今回の支援は、新型コロナウイルス感染拡大防止のために政府や自治体のほうが活動の自粛(休業)を要請し、これを受けたアーティストやライブハウス、イベント系の業者が実際に活動を自粛したために収入が止まってしまっている、という前提がある。本来ならば「表現の自由」も「営業の自由」もあるはずのアーティストやライブハウス、イベント関連業者が、死活問題レベルの損失を抱えながら、「緊急事態宣言」のもとで「公共の福祉」のために自己の権利を事実上放棄して協力しているわけである。「自粛と補償はセットになるべき」との声も、ここから出てくる道理である。これを今回のアーティスト支援に即して考えると、自粛を要請した側がそれに協力して死活問題に陥っている人々に対して、作品のクオリティなり創造性なり政治的中立性なりを理由に選別できる筋合いであるかどうか。道理の問題として、そこが問われるべきではないか…。

しかし同時に、ここで憲法29条3項レベルの「補償」が実現するまでは譲歩しない、という姿勢をとってしまうと、支援はどんどん先延ばしになってしまう。また、実際にそれで裁判を起こす人がいたとして、理念はその通りではあっても、最高裁判例の蓄積から見ると勝ち目は薄いように思われる。休業要請は、国民の健康や安全を守ることを目的としており、しかも必要性・合理性が認められる事柄について、特定の店舗ではなく対象地域に一律に協力を求めているため、これまでの判例からすると、憲法29条3項の「補償」を行うことを政府や自治体に強制することは難しいと思われるのである。もちろん、政府や自治体が「やる」と言った時には、この条文を根拠として、憲法的にも支持できる、と言えるのだが…。

このように、アート支援について「完全補償」を掲げてしまうと、実際の支援受け取りは遠のくことが予想される。だから「完全な補償」は財政上無理だということを理解する必要はあると思われるのだが、そうではあっても、諸般の事情に照らして「フェアな支援は必要だ」、とまでは言うべきだろう。

(ベートーヴェン交響曲第7番 第1楽章[抜粋](福川伸陽・小山莉絵・幣隆太朗・浅原由香with芸劇ウインド・オーケストラ・アカデミー YouTube東京都公式サイトTOKYO および東京都生活文化局公式サイトより)

フェアな支援、必要な支援

ここで言う「フェアな支援」とは、額において完全ではないとしても、「要請」によって損失を余儀なくされた人々に対して噛み合う内容の支援であること、とくに、もっとも損失を被った人に届く支援であること、その意味でニーズ(必要性)に見合った筋の通った支援であること、といったことを意味する。この観点からは、アーティスト全般が置かれた窮状に乗じて選別色を強め、淘汰を助長する方向をとるべきではない。とりわけ、国や自治体の政策や政治思想を応援し盛り立ててくれる者だけを選別優遇し、そうでない者を淘汰の流れへと放置することは、今、「公」が厳に慎むべき場面である。緊急事態を宣言し協力を求めた側がそうした思考をとることは、フェアネス(公正さ)の観点から、許されない。

ここでは、ごく基本的な「平等」は守られるべきである。あるべきでない「対象外」選別が行われることは、憲法14条「法の下の平等」に反することとなる。しばらく前に、雇用調整助成金の支給対象として「風俗」が除外されかけたことがあったが、その除外は不適切ということが厚労省にも認識され、撤回されている。こうしたことが「不適切な除外」の一例だろう。

また、痛手を被っている弱者への救済となるべき財源が、なんらかの不透明な仕組みによって、痛手を被っていない強者に流れてしまうことは本末転倒になる。経済を活性化させるために消費行動を促す積極策の場合とは異なり、弱者支援のための緊急対策は、下手な一石二鳥を狙わずに、ひっ迫したニーズを抱えている弱者に直接に届く仕組みにしなくてはならない。

今、「平等」の問題に触れたが、他方で、支援を早急に届かせるというニーズからは、「諸般の情報をまんべんなく収集し、平等を期して不公平が生じないよう慎重に支援対象を一件ずつ吟味検討し…」といった完璧主義をとることは、今、この場面では「先延ばしにするための言い訳」となってしまうだろう。したがって、一件ごと、一名ごとに実情を調査検討した上での「実質的平等」を求めることも賢明とは言えず、合理性と公正性が確保されればそこでスタートすべきである。

こうしたことを総合的に指して、本稿では「フェアな支援」「必要な支援」と呼ぶことにする。

この観点から東京都の募集要項と応募規約を読んだとき、「よく考えられている」「今はとりあえずこれでいくしかない、という判断は理解できる」と言うべき部分と、「ここはニーズとフェアネスの観点から見て、議論や別観点からの補償が必要」と言うべき部分がある。そうした考察を、何が支援対象となり、何が対象外とされるのか、というところに即して見ていきたいのだが、まずは基本の視点を出すところまでで5000文字近くになってしまった。そこで本稿を考察の総論と位置づけ、実際に募集要項と応募規約の言葉に沿って考える各論は、あと少し整理推敲をして、一両日中に投稿しようと思う。

前回の投稿を読んでくれた読者で、実際に音楽や演劇にかかわっている方々から、この東京都の支援策について、当事者ならではの意見や疑問を数件、いただきました。本稿を執筆するにあたって、いただいた意見が大きな参考とモチベーションになりました。この場を借りて感謝を申し上げます。

本稿は、令和2年度科研費採択研究「アメリカにおける映画をめぐる文化現象と憲法:映画検閲から文化芸術助成まで」の成果の一部です。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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