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【戦国こぼれ話】姫路市は姫路城の豪華な天守だけではなかった。城下町の形成過程を探ろう

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
姫路市といえば、姫路城が有名であるが、その城下も注目の必要がある。(写真:ogurisu/イメージマート)

 現在、姫路城のバーチャルツアーが行われている。ナイスなアイデアだ。ところで、姫路といえば姫路城の立派な天守だけでなく、立派な城下町がある。その形成過程を紹介することにしよう。

■羽柴(豊臣)秀吉、木下家定・延俊父子の時代

 天正8年(1580)に羽柴(豊臣)秀吉が姫路城(兵庫県姫路市)を築城して以後、徐々に城下町が形成されたと考えられるが、具体的にその様相を示す史料は乏しい。

 秀吉の時代には、すでに書写道と稲葉街道口の船場、但馬街道口の野里に町場が見られたという。

 天正8年(1580)に英賀城(兵庫県姫路市)が落城すると、同城下の町人を姫路城下に移住させたという。これにより、姫路城下町は徐々に整備されたと考えられる。

 天正13年(1585)になると、木下家定・延俊父子が姫路城主となる。その2年後には、川間町、いとく(威徳)寺町、材木町、野里町、小姓町などの町名が確認できる。野里は、鍛冶が盛んな地域だった。

■池田輝政の姫路入封

 慶長5年(1600)に池田輝政が姫路城の改修に着手すると、同時に城下の整備も行われた。輝政は姫路城下の町割りを行い、中曲輪に侍屋敷(約25万坪)、外曲輪に武家地・町人地と寺院を置いたのである(約25万坪)。

 さらに、城下の北を通過する西国街道を外曲輪の中に通し、城下が飾磨街道と生野街道にそれぞれ通じるようにした。また、武家地・町人地は、曲輪外の西国街道の出入り口にも置かれた。

 こうして姫路城下には、人口約3万人、町数が88、家数が5360余という巨大な城下町が形成されたのである。

■本多忠政の姫路入封

 元和3年(1617)に本多忠政が姫路に入封すると、町割りラインの方向が姫路平野に広範に展開する条里制を一部に採用した。

 城下は中曲輪(侍屋敷)以外を外山下と称し、中曲輪以内を内山下と呼んだ。そして、外曲輪内を惣構と称したのである。

 忠政は二股川を改修し、城下の西を南北に走る船場川を通過させた。これにより、飾磨津から物資を運ぶ船が材木町、小利木町付近の船着き場に通い、流通の大動脈となった。こうして姫路城下は、いっそうの発展を遂げる。

■酒井忠恭の姫路入封

 寛延2年(1749)に酒井忠恭が姫路に入ると、大年寄町会所は本町に置かれ、町方の大年寄は7名とされた(各町の年寄は2人)。

 しかし、この年には姫路城下を未曽有の大水害が襲った。その結果、船場川は決壊。溺死者337名、行方不明者71名、家屋の流失や全半壊は、500余に達した。

■近代以降の姫路城下

 明治4年(1871)の廃藩置県後、中曲輪から侍屋敷が撤去され、官有地になった。その後は飾磨県庁が置かれ、3年後に陸軍の兵営が設置された。

 昭和20年(1945)6・7月、姫路市は米軍による空襲で甚大な被害を受けた。しかし、姫路城は焼失の被害を免れ、現在に至ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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