【深掘り「鎌倉殿の13人」】源実朝は北条義時が平盛綱を御家人に推挙した際、本当に断ったのか
今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、源実朝は北条義時が平盛綱を御家人に推挙した際に断っていた。それが事実か否か、詳しく掘り下げてみよう。
■平盛綱とは
大河ドラマでは、北条泰時とともに育った鶴丸なる孤児が登場する。鶴丸は、北条家に仕えていた。鶴丸は北条義時の口添えもあって、御家人に列せられた。名も鶴丸から、平盛綱に改められたのである。
平盛綱は内管領長崎の祖であり、かの御成敗式目の制定にも関わった重要な人物である。義時、泰時、経時、時頼の4代にわたって仕え、北条氏の屋台骨を支えた。平禅門の乱で有名になった平頼綱は、盛綱の孫である。
とはいえ、盛綱については謎が多い。出自は、平資盛(重盛)の子、あるいは孫とされるが、確証はまったくない。生年も没年も不明であり、重要な人物ながらもあまりに謎が多いのである。
■源実朝が断ったのは事実だが・・・
大河ドラマでは、義時が実朝に盛綱を御家人にするよう迫ったが、いったん実朝は断った。しかし、義時は実朝を脅し、むりやり盛綱を御家人として認めさせたのである。果たして、これは事実なのか。
承元3年(1209)11月、義時は長らく仕えてきた郎従について、功があったので、侍(御家人)に準じる扱いにしてほしいと実朝に願い出た(『吾妻鏡』)。郎従とは郎党ともいい、主人に隷属する付き従う従僕だった。
しかし、実朝は義時の要請を断った。もちろん理由がある。この話が実現すると、義時は普通の御家人よりも地位が高くなり、将軍に準じる地位になってしまうので、非常にまずかった。
御家人体制は幕府の根幹なので、義時の言い分を認めると混乱が生じてしまう。実朝は、その危険性をわかっていたから、断ったのだろう。むろん、この郎従が鶴丸(=平盛綱)であるとは書かれていない。
■まとめ
義時が実朝を恫喝するシーンは、今回のハイライトだった。しかし、実際は上記のような話で、義時が郎従を御家人にするよう強要できなかったようである(盛綱の件はフィクション)。
ただ、義時はこういうことを要求したのだから、自身が幕政のカギを握る地位と権勢を保持していたことを自負していたに違いない。