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[センバツ]甲子園を去る東洋大姫路・藤田明彦監督が振り返る史上初の「あの一戦」。

楊順行スポーツライター
姫路といえば、世界遺産の姫路城と東洋大姫路です(写真/筆者)

「最後にフィールドを出るとき……バックスクリーンが目に映りました」

 今年度限りで退任する東洋大姫路(兵庫)・藤田明彦監督は、2対4と高知に敗れた1回戦限りで甲子園を去る。

「17歳で甲子園に出て、最後も母校のユニフォームで甲子園の試合。最高の野球人生でした」

 1963年に創部した東洋大姫路。創部7年目の69年夏に初めての甲子園出場を果たし、藤田はその3年後、あまたの強豪の誘いがありながら東洋大姫路に進学する。かつて、昔話を聞いたことがある。

「たまたま右投げ左打ちだったので、当時としてはめずらしかったんじゃないですか。私が入ったころは、東洋(大姫路)はそんなに強くなかったんです。甲子園常連の報徳学園に追いつけ、追い越せ……という感じでした」

 甲子園通算勝ち星で、報徳学園が60勝、東洋大姫路が33勝。それぞれ全国制覇歴もあり、いまも県内の強力なライバルであることは間違いない。入部当時の話は続く。

「当時校庭のグラウンドは、レフトなんか60メートルくらいしかありません。そこへ1学年70人くらい入部しますから、なかなかボールにさわれない、バットを振れない。しかも練習は厳しい。当然、やめていきます。それでも残ったヤツをさらにふるいにかけ、ついてこれないヤツはこなくていいと9人にしぼります。残るのは学年で12〜13人というところ。残ったヤツこそホンモノということでしょう。具体的に、対報徳という練習はないんです。基本の繰り返しで、僕らの時代は練習のバリエーションもさほどなく、フリー打撃、ノック、シートバッティングを、これでもかこれでもかというほど繰り返していましたね」

 部員を減らすための練習……昭和の高校野球である。

さわやかイレブンに勝った報徳に勝ち……

 藤田が高校3年になった74年には、“さわやかイレブン”の池田に勝ってセンバツで優勝した報徳と兵庫大会準々決勝で対戦し、姫路が2対1で勝ち。姫路球場での試合だったこのとき、「ふつうなら前日に泊まるけど、前の日が休養日だったから当日移動にした僕の失敗。海水浴の季節、満員だった山陽電車を立ちっぱなしで移動したから、ナインが疲れ果てていた……」と、当時報徳を率いていた福島敦彦さんから聞いたことがある。

 藤田はその後、東洋大でも2度のリーグ優勝を経て、社会人の東芝府中では選手、監督として活躍。母校の監督になるのは、97年の8月だった。翌98年の夏には、記念大会で兵庫が東西2代表になり、東は報徳、西は姫路がアベック出場。姫路にとっては夏は11年ぶりの出場だった。以来2006年までの第1期、そして11年に監督に復帰して今回まで、春夏7度の甲子園に出場し、10勝7敗1分けの成績を残している。

 こちらとしては11年夏、エース・原樹理(現ヤクルト)の臨時代走に代走を出し、勘違いでエースを交代させざるを得なかったシーンも印象深いのだが、藤田が「強く印象に残っています」というのは、03年のセンバツ、花咲徳栄(埼玉)との延長15回引き分け再試合。

2003年、センバツの準々決勝でそれは起きた

 その準々決勝第4試合は、徳栄・福本真史、姫路・グエ・トラン・フォク・アンの投手戦となった。一歩も譲らず、9回まで0対0。10回表に徳栄が待望の1点をもぎ取れば、その裏姫路も犠牲フライでしぶとく追いつく。15回表、徳栄がエラーがらみで勝ち越すと、その裏2死から、姫路も相手エラーで1点をもらい、2対2のまま引き分けた。延長戦は15回で引き分け、と大会規定が変更されたのは00年で、それ以来甲子園では初めて、またセンバツでは41年ぶり2度目の引き分け再試合となったのがこの試合だ。

 それぞれ191球、220球を投げたアンと福本が先発を回避し、翌日の再試合は一転、点の取り合いになる。徳栄が先制、姫路が追いつき、勝ち越し、徳栄が逆転すればすぐさま姫路が再逆転。9回表、徳栄はレフトに入っていた福本が2死から同点打を放ち、その裏マウンドに上がるとゼロに抑え、5対5でまたも延長となった。再試合も延長というのは、史上初めてのことだ。

 そして10回裏、姫路の先頭・前川直哉が三塁打で出ると徳栄は満塁策を選択。続く野崎和への福本の5球目が暴投となり、史上初めての再試合の延長戦は、いともあっけなく決着がついた。ただし姫路のエース・アンはこの日が3回戦からの3連投目。さすがに、4日間で530球を投げた翌日、準決勝の広陵(広島)戦では力尽き、その試合をモノにした広陵が優勝を飾ることになる。

 藤田監督が「あの年代は一番苦労しました。ずっと思い出す」と語ったこの引き分け再試合。「こういういい方はよくないけど、どっちもエラーがらみの同点だったから、むしろ痛み分け。よかったなと思っています」という当時の耳打ちをよく覚えている。

 春夏通じて11年ぶりだった東洋大姫路の今回の甲子園では、4対0とリードされながら、8回は2死から2点を返す粘りを見せた。流れが悪く、このままいくんじゃないか……と思っていた藤田監督にとって、「特別に力のある子はいないのに、あきらめない姿勢を見せてくれました」と2点差に追いすがったナインの奮闘は感動的だった。

 蛇足ながらこれからの東洋大姫路は、履正社(大阪)を日本一に導いたOBの岡田龍生監督が指揮を執ることになる。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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