3月7日にお別れの会、アントニオ猪木と両国国技館の関係について考える
今月7日、両国国技館で「アントニオ猪木お別れの会」が開催される。日本のプロレス界の第一人者がこの世を去ってから5か月、当日は全国からファンが駆けつけて故人に思いを巡らせるに違いない。猪木とファンを結ぶ最後の場として選ばれた両国国技館はプロレス興行で馴染みの会場だが、この機会に改めて猪木との接点について考えてみたい。
昭和プロレス最後の舞台
アントニオ猪木が両国国技館で初めて試合をしたのは竣工から間もない1985年4月18日、ブルーザー・ブロディとのシングルマッチであった。ライバル団体から新日本プロレスに移籍してきた大物外国人との初対決は大きな話題となり、真新しい客席はぎっしりと埋まった。試合は決着がつかなかったが、両国国技館で猪木の名勝負と言えば、真っ先にこの一戦を思い浮かべるファンは多いはずだ。まだ辛うじて金曜夜8時にテレビ中継されていた時代、猪木とブロディの試合は日本人と外国人による対戦構図でファンを魅了した「最後の昭和プロレス」だったように思う。
政界進出以降は試合なし
あまり知られていないが、政界に進出して第一線を退いてからの猪木は、両国国技館で試合をまったくしていない。レスラー猪木として同所で残した試合は、先に述べたブロディ戦から1989年2月の長州力戦までのわずか20試合のみ。つまり、平成のファンにとって両国国技館で見た猪木と言えば、ネクタイを締めてリングに上がって「1、2、3、ダーッ!」を叫ぶ姿ということになる。リングの主役が現役レスラーに移っていく中で、猪木は試合以外で両国国技館の名場面を作ってきたわけで、1992年に天龍源一郎からの対戦を受諾したシーンはその代表だろう。
二度にわたって旗揚げで使用
しかし、1998年に現役を引退してからの猪木は、両国国技館に登場する機会が増える。自ら立ち上げたUFOとIGFの旗揚げ戦に同所を選んでいるし、新日本プロレスのオーナー時代はリングに立ち、ゴールデンタイムの生放送決定や(実現しなかったものの)マイク・タイソン招聘を発表したこともある。やはり、1万人という収容規模は猪木のスケール感に適しているのだろう、2017年には「生前葬」が両国国技館で執り行われている。また、ジャイアント馬場の没二十年追善興行に参列したのも両国国技館であった。
チャレンジ精神を象徴した会場
そして、猪木と両国国技館で忘れてはならないのが、現役中の1987年12月に起きた暴動事件である。猪木の試合内容に不満を持ったファンが起こしたこの事件により、新日本プロレスは一年間も同所の使用を禁じられてしまう。暴動と言えば不名誉だが、言い方を変えれば、これほど観客を興奮させたプロレスラーは、猪木の他にいない。生前、猪木は両国国技館を「環状七号線」に例え、プロレスファンの外側にいる層に訴える重要さを説いており、暴動はある意味、世間を振り向かせようとした猪木のチャレンジ精神の表れとも言える。両国国技館は、常に世間を意識し続けた猪木を象徴する空間として、お別れの場に最適ではないだろうか。
※文中敬称略