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【その後の鎌倉殿の13人】家臣を暴行された太政大臣・西園寺公経が天皇に願った仕返しとは?

濱田浩一郎歴史家・作家

天福元年(1233)6月19日。京都の六波羅探題(承久の乱後、鎌倉幕府が都に設置した出先機関)から鎌倉に使者が到着しました。当時、六波羅探題北方は、北条重時でした。重時は、北条義時(幕府2代執権。鎌倉殿の13人主人公)と正室・姫の前(ドラマでの役名は比奈)との間に生まれた子(3男)です。幕府3代執権・北条泰時(義時の嫡男)の異母弟に当たります。六波羅の重時は兄・泰時に、書状を持たせた使者を派遣。それが6月19日に鎌倉に着いたのでした。重時の使者がもたらした書状を、泰時は幕府御所に持参しています。では、その書状には一体、どのようなことが書かれていたのでしょうか。6月11日に都で起きた出来事について記された書状でした。公家の藤原実任が出掛けていたのですが、大炊御門東洞院辺りにおいて、馬上の左近大夫親賢に出会います。親賢は、太政大臣・西園寺公経(西園寺家は藤原氏北家閑院流)に仕える者です。実任は、下馬すべきことを、親賢の側に頻りに促しますが、親賢はそれを承引せず。何事もなかったかのように、通り過ぎようとしたのです。これに実任は激怒。同日の晩に「青侍」(公家に仕える侍)を遣わして、一条殿から退出しようとする親賢を「蹂躙」したのでした。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には詳しいことは記載されていませんが、おそらく散々に暴行したのでしょう。当然、親賢が仕えていた西園寺公経は、実任に恨みを持ちます。実任を「放氏」(藤原氏から追放)し、更には解職することを天皇に願うのでした。しかし、天皇はすぐには決断を下さず。代わりに、親賢に暴行したのは、淡路国の武士なので、その処分は「武家」(幕府)に任せることをお命じになったのです。これが、重時の書状の内容でした。公家の恨みは怖いことがよく分かる逸話でしょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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