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【光る君へ】一条天皇への熱い愛 中宮定子の最後の歌とは?

濱田浩一郎歴史家・作家

大河ドラマ「光る君へ」第28回は「一帝二后」。一条天皇の中宮・定子の死が描かれました。藤原道長とその妻・倫子の間に生まれた娘・彰子に長保元年(999)11月7日、女御の宣旨が下ります。一条天皇の女御と彰子はなったのです。彰子が女御となったその同じ日。道長が恐れていたであろう出来事が起こります。一条天皇の中宮・定子が皇子を出産したのです。これが、敦康親王です。寵愛する定子が男子を生んだ事を一条天皇は非常に喜ばれました。道長の日記『御堂関白記』は定子が皇子を生んだ事については触れていません。

同時代の貴族・藤原実資は、定子が皇子を生んだ事について「中宮が男子を生んだ。世に横川の皮仙(かわひじり)という」とのみ日記『小右記』に記しています。実資が言う「横川の皮仙(聖)」とは、平安時代中期の僧侶・行円のことです。叡山の横川の聖・行円は、行願寺(革堂)を創建して、貴賤を問わず多くの信者を集めたことで知られています。また、常に鹿の衣をまとい、庶民を教化したとされます。ちなみに、後の話(1012年)となりますが、藤原道長の3男・顕信(母は源明子)は、行円のもとを訪れ、その教えに感激し、そのまま出家しています。顕信の出家を両親は大層嘆いたと言われます。

話を戻すと、実資はなぜ、中宮を「横川の皮仙」と記したのでしょう。前述のように、行円は常に鹿の衣をまとい、庶民などを教化していたとされます。言わば出家(僧侶)らしくない出家と人々に思われていたのでしょう。一方、中宮・定子は出家しながら、子供を生んだ。これまた出家らしからぬと実資や世(世間)は思っていたのでしょう。よって、実資は日記に中宮定子を「横川の皮仙」などと書いたのです。さて、長保2年(1000)12月、定子は再び子を生みます。媄子内親王です。しかし、媄子内親王を出産した翌日、定子は死去してしまいます。その遺詠は「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」(一晩中、約束したことをお忘れにならないなら、私のためにきっと泣いてくれるでしょう。そんな涙の色が見たいものです)でした。定子は最後まで一条天皇のことを想いながら亡くなったのです。

(主要参考文献一覧)

・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)

・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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